あんなに一緒だったのに

 アニメソング界で絶大な人気を誇る女性3人組ボーカルユニット「Kalafina(カラフィナ)」が、今春にも3人体制での活動に終止符を打つことが12日、スポーツ報知の取材で分かった。同じ所属事務所の音楽プロデューサーで、08年のデビュー以来、全楽曲を手掛けてきた梶浦由記氏が先月20日に退社したことを巡って、メンバー間に亀裂が生じたとみられる。

 昨年12月に一部で梶浦氏の退社が報じられて以降、事務所に残留するか退社するかで、メンバーに動揺が広がっていた。全幅の信頼を寄せてきた梶浦氏を欠き、これまで通りの楽曲制作は不可能に。梶浦氏不在のままのユニット存続に疑念を抱くメンバーが今月末での脱退を決め、分裂することになった。

 関係者によると、今後の3人でのCDリリース、ライブの予定は白紙の状態。また、10年からレギュラー出演するbayfmKalafina倶楽部」(火曜・深夜0時)が今月で終了する。今後、残留メンバーだけでユニットを存続させ、他アーティストとの共演などを模索していくという。

 高音のWakana、低音のKeiko、中音のHikaruが織りなす独特のハーモニーが魅力のKalafina。09年からNHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌を歌うほか、数々のアニメでテーマ曲を担当して人気に。今年1月23日に日本武道館でデビュー10周年ライブを行い、新たなスタートを切ったばかりだった。

 11日に都内で出演した音楽イベントが3人で行う最後のライブになった。普段と変わらぬ抜群のハーモニーを聴かせた一方、最後に感極まって涙を流すメンバーもいた。3人は30日に都内でドキュメント映画の初日舞台あいさつに立つ予定で、発言が注目される。


 ◆Kalafina(カラフィナ) Wakana、Keiko、Hikaru(いずれも年齢非公表)の3人組ボーカルユニット。2008年1月、劇場版アニメ「空の境界」の主題歌「oblivious」でデビュー。NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌「storia」、人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」のテーマ曲「magia」などを担当。中国、台湾などで単独公演を行い、北米や欧州で多数の音楽イベントに出演し、海外でも高い人気を誇る。

(「スポーツ報知」2018年3月13日)

先日の「Songful Days」で初めて耳にして、その美しすぎるハーモニーにすっかり魅了されたのですが、残念ながら3人そろった姿を見るのはこれが最初で最後になりそうです。

昨年末に、梶浦さんが事務所を退社するというニュースが飛び込んできて、梶浦さんのおかげで成り立っていたKalafinaにも影響が出ることは避けられないという風になりました。実際、1月の10周年記念武道館公演以降はスケジュールが白紙(のちにSongful Daysに出演決定)になっていました。
その時のスポニチの記事がこちらです。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態。20億円以上を稼ぎ出すとみられる2組が「離脱」と「活動休止」となれば事務所にも甚大な影響を及ぼすことになる。

 年末にかけてローラ(27)や西内まりや(23)ら有名タレントと所属事務所とのトラブルが相次ぐ中、芸能界が新たな収益先として注目するアニメ界を揺るがす独立劇が起きた。

 梶浦氏は「魔法少女まどか☆マギカ」などの人気アニメを中心に活躍する劇伴奏の第一人者。NHK朝の連続テレビ小説花子とアン」などの音楽も担当しており、ここ数年で手掛けたCDの総売り上げは200万枚を超える。複数の関係者によると、来年2月に退社し、今後はフリーで活動するとみられる。楽曲に関する権利については弁護士を通じて事務所側と話し合いを続けているという。

 音楽関係者によると、昨年9月に開催したカラフィナの武道館公演までは梶浦氏を育てた音楽プロデューサーA氏が現場を担当していたが、女性幹部に交代。音楽の方向性の違いなどで、梶浦氏と女性幹部の間でトラブルになっていたという。今年6月にA氏が事務所を退社したこともあり、音楽スタッフの1人は「梶浦さんは女性幹部との折り合いがよくなかった上に、芸能界に引っ張ってくれた恩人がいなくなったことで退社を決意したようです」と話した。

 梶浦氏がプロデュースし、NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌などを歌うカラフィナも来年1月23日の結成10周年を記念した日本武道館公演以降のスケジュールがほとんど白紙状態となっている。来春の映画公開や楽曲のリリース予定はあるものの、梶浦氏が離れることから活動休止も検討しているという。事務所側はスポニチ本紙の取材に「そんな事実はありません。ただ3月以降の契約については把握していません」と説明した。

 音楽関係者は「カラフィナで年間の売り上げは10億円は下らない。梶浦さんも実は隠れ長者。劇伴奏が多いのでカラフィナ以上に稼いでいる。あとは権利に関しての契約がどうなるか」と指摘した。神田うの(42)、栗山千明(33)らが所属する老舗事務所にとっても大幅な売り上げダウンとなれば、経営の根幹を揺るがしかねない可能性がある。


 ◆梶浦 由記(かじうら・ゆき)年齢非公表。1993年にユニット「See-Saw」のキーボードとしてデビュー。ユニットの活動休止以降は作詞・作曲を中心に活動し、ソロプロジェクト「Fiction Junction」として、ボーカリストを招いて楽曲をリリース。テレビアニメ「ソードアート・オンライン」、NHK連続テレビ小説花子とアン」など、多くの作品でサウンドトラックを手掛けた。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態となっている。

 カラフィナはこの日、都内でクリスマスライブを開催し、3月30日に初のドキュメンタリー映画を公開することを発表した。メンバーのKeiko(年齢非公表)は「私たちが歌ってきた音楽が見えるものになっている」と自信。Hikaru(年齢非公表)は「可能な限り音楽を通じてファンの皆さんと会話をしたいなと思います」と話していた。


 ◆Kalafina 08年にアニメ映画「空の境界(からのきょうかい)」の主題歌「obluvious」でデビュー。高音をWakana、中音をHikaru、低音をKeikoと、異なる音域を担当する3人によるハーモニーが特徴。アニメソングを中心に活動し、代表曲に「魔法少女まどか☆マギカ」エンディングテーマの「Magia」、「アルスラーン戦記」エンディングテーマの「One Light」など。

(「スポーツニッポン」2017年12月23日)

この時は、梶浦さんの独立騒動にKalafinaも巻き込まれるのではないかと言われていたのですが、事務所・本人からは何もコメントがありませんでした。緘口令が敷かれているのか、それとも本当に何も知らないのか、外部の人間は何もわかりません。

そんな中で、1月23日に武道館公演が開催され、成功裏に終わりました。そして2月になって、梶浦さんから退社の報告がありました。

 アニメや映画のサウンドトラックなどを手掛ける音楽プロデューサー・梶浦由記氏が21日、所属事務所「スペースクラフト」を退社したことを自身のツイッターで報告した。関係者によると、20日付で退社した。

 梶浦氏は「わたくしこの度所属事務所より独立させて頂くこととなりました」と報告。「思えばスペースクラフトプロデュースさんには長らくお世話になりました……20年以上ですから。今は有難くも心躍るようなお仕事に多々携わらせて頂いておりますが、そうでない時期もございました。その間も支え続けて下さった事も含めて感謝の言葉しかありません」とした。

 今後については「長期間に渡って色々な事を学ばせて頂きましたが、ここらでそろそろ自分で頑張ってみようかなと。今後も勿論音楽のお仕事は続けて参りたいと思っております」と記した。

 女性3人組ボーカルユニット・Kalafina、歌手・春奈るな(26)らに楽曲を提供している梶浦氏。「今までお世話になった同事務所の歌い手さんたちや、Kalafinaについては……いる場所が変わってしまいますので今まで通りと言うわけには参りませんでしょうが、今後も微力ながら応援して参りたい気持ちに変わりはございません♪」とつづった。

 梶浦氏は、1993年に女性2人組ユニット「See-Saw」としてメジャーデビュー。人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」などアニメ音楽を数多く手掛けるカリスマ的存在で、14年にはNHK連続テレビ小説花子とアン」の音楽を担当した。

(「スポーツ報知」2018年2月21日)

さて、この中にある「いる場所が変わってしまいますので」というくだりをどのように受け取ればいいのでしょうか。もし、梶浦さんがKalafinaのプロデュースから離れるという意味だとすれば、それはユニット自体の存続の危機ということを意味します。その後、メンバー間で今後の活動に関して軋轢があったようで、「梶浦さん抜きでやっていけない」といったのが誰かはわかりませんが、今月いっぱいで脱退し、残ったメンバーだけでやっていくことも検討しているようです。

しかし、古くからのファンからは「3人そろっていなければKalafinaではない」「あのハーモニーを生み出せるのは梶浦さんがいてこそ」という声も聞かれます。となると、活動休止、最悪の場合解散も避けられないような気がします。

これは深読みしすぎだと思いますが、Songful Daysのラストでみのりんがポツリとつぶやいた「…終わっちゃった」も、また別の意味にとれるでしょう。「3人そろったKalafinaと共演するのは、これが最後ではないか」と、みのりんも薄々感づいていたのではないかと思います。特に、みのりん自身も2度にわたる独立騒動があっただけに、他人事とは思っていないような気がします。

この騒動は、2016年のSMAP解散騒動を思わせます。構図が全く同じです。

地下鉄博物館

関東地方の鉄道にまつわる博物館といえば、JR東日本の「鉄道博物館」、東急電鉄の「電車とバスの博物館」、東武鉄道の「東武博物館」などがありますが、今回は東京メトロの「地下鉄博物館」に行ってきました。

場所は東西線葛西駅の高架下で、東京駅からだと大手町まで歩いてから東西線に乗り*1、各駅停車で17分です。東陽町西船橋の快速運転区間内に入っており、快速は止まらないので注意が必要です。

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入り口の横に、地下鉄の台車と、開館当時(1986年)に営業していた都営地下鉄も含む10路線の色をあしらったレリーフがあります。

南北線都営大江戸線の最初の区間は1991年に、副都心線は2008年に開業

入ってみよう

入館券は、団体客でもない限り券売機で買うのですが、食堂などで見られるものを流用しています。もっとも、他社の博物館でもそのあたりは同じです。PASMOをはじめとする各種ICカードの使用も可能です。

入り口では本物の自動改札機を流用しており、平日はここに入館券を通して入館します。休日には、その昔どの駅でも見られた改札ブースがあり、そこで係員に切符を切ってもらいます。

改札の横には昔の自動券売機があります。上の行燈には「営団線 全線」と書かれているほか、大人用と子供用のボタンが分かれており(昔の券売機ではよく見られた)、さらに連絡切符の選択ボタンも、「国鉄線(北千住経由)*2」、「小田急線(代々木上原経由)」、「東武線(北千住経由)*3」、「都営線連絡」となっています。実際に中野新橋駅で使用され、2013年まで入館券の販売機として使われていたものですが、操作盤は1984年当時の千代田線のどこかの駅でのものをボール紙に印刷して貼り付けて再現しています。

その昔、自動券売機といえば単一の券種しか発行できないものが大多数を占めていました。他社では早いうちに多機能型に置き換えられましたが、営団地下鉄には160円もしくは190円専用の券売機が平成どころか21世紀になっても、東京メトロになってからも2006年まで残っていました。こちらは展示されていませんでした。

お出迎え

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中に入ると、かつての丸ノ内線の主役だった300形(C#301)がお出迎えです。300形は、丸ノ内線の第一期区間(池袋~御茶ノ水)が開業時に30両が揃えられました。

特徴は何と言っても赤い車体に白い帯で、帯には正弦波(サインウェーブ)があしらわれています。長年にわたって活躍したということもあり、「丸ノ内線といえばサインウェーブ」というイメージが出来上がっています。のちに02系のリニューアル工事を行った際、サインウェーブが復活しました。

足回りは、当時電車の技術では最先端を行っていたアメリカで広く使われていた技術を、三菱電機を経由して取り入れ、その後の日本の電車の技術向上に一役買いました。そのうちの一つが、高回転型のモーターと組み合わされたWN駆動装置で、現在の地下鉄の標準的なシステムとなっています。構造上高出力に耐えられるというメリットがあるのですが、継手が大きく場所をとり、その分モーターが小さくなって出力も落ちるため、日本で標準的だった1067mm軌間の路線では普及が遅れ、丸ノ内線をはじめとする標準軌の電車*4で先に普及しています。

1988年から02系を導入して置き換えることになると、置き換えられた車両は日本橋三越で40万円で売り出されていたほか、大多数はアルゼンチンに輸出され現地でも主力車両として活躍していました。しかし、アルゼンチンでも老朽化に伴い故障が多発して引退することになり、4両が東京へ戻ってきました。現在は中野車両基地で動態保存されています。

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銀座線の初代車両、東京地下鉄道1000形です。浅草~上野が開業した1927年に導入されたもので、現在の銀座線の主力車両・1000系のモチーフとなりました。

一般の鉄道でも同じことですが、地下鉄で一番怖いのは車両火災です。当時の電車は木造が当たり前で、ようやく鋼材を併用し始めたという段階でした。木材を排除してすべて鋼材で作るようになったのは、前年に登場した阪急600形がありますが、この電車は関東では初めての全鋼製車両です。全鋼製車両でありながら、木造車と同じムードを演出するため、内装は木目調の塗装をしていました。

色は現在の1000系と同じ黄色ですが、これはトンネルの中でも明るく目立つように、ということで、ベルリンの地下鉄からヒントを得ています。ただし、時が下るにつれて濃くなり、黄色というよりオレンジに近づいていきました。01系では黄色が消えましたが、1000系で復活しました。
のちの名古屋市営地下鉄でも、初期の車両は同じ理由で黄色く塗られていました。

この当時の車両で、すでに車両間の転落防止柵が取り付けられています。ただし、現在の車両とは異なり車体の四隅についているのではなく、点対称になっています。

戦後になって台車を交換しており、その時に外された台車の一部は山陽電車で1980年まで使われていました。その台車は里帰りを果たし、C#1001の復元に役立てられました。当時はまだ地下鉄博物館がなかったため、代わりに神田須田町交通博物館で保存され、地下鉄博物館の開館にあたって移設されました。

なお、この当時の車両番号のフォントは一般的なもので、営団地下鉄独特のものではありませんでした。

1977年に日本での地下鉄開業50周年を記念して発行された切手には、銀座線の1000形と、神戸市営地下鉄の1000形が描かれていました。銀座線の1000形は日本初の地下鉄電車、神戸市営地下鉄の1000形は当時最新鋭の地下鉄電車ということで選ばれました。

自動改札機

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改札の自動化はかなり早くから考えられていたようです。これは、浅草~上野の開業時に使われていたターンスタイル式の自動改札機です。
現在の磁気券やICカードを使う改札機とは異なり、10銭硬貨を入れてバーを押して通るタイプです。これは、当時の銀座線の運賃は10銭均一という、現在でも大都市の路線バスや路面電車でみられる運賃制度を取っていたためです。このため、開通日の乗車券というものはありません。1931年に神田まで延伸した際に運賃が区間制になったため、このタイプの改札機は廃止されました。
現在見られる磁気券を用いる自動改札機は、1974年に恵比寿・中野坂上・池袋(有楽町線)・銀座一丁目で試験導入されましたが、当時は関東地区ではあまり普及が進まず、本格的な普及は1990年代まで待つことになります。

地下鉄博物館に置いてあるレプリカは、5・10・50・100円硬貨を入れて通ることができます。

駅ナカ

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東京地下鉄道は早くから駅ナカビジネスに取り組んでいました。「地下鉄ストア」や「地下鉄食堂」がこれに当たり、現在の「メトロ・エム」や「Echika」に発展します。その目的は、乗客誘致と収益確保のためで、先に開業した梅田の阪急百貨店と目指すところは同じでした。

まず浅草で地下鉄食堂を開業したのを皮切りに、上野や神田須田町にも展開していましたが、営団に改組されたのと前後して消滅しました。しかし、神田須田町の地下鉄ストアは、当時入居していたテナントに営業を継続してもよいと通達していたため、21世紀になっても一部のテナントが営業していました。最後まで残ったテナントとしては「地下鉄歯科診療所」や「地下鉄美容室」があり、中には看板に書いてある電話番号が、市内局番が3ケタのままになっていたということもありました。

6000系の貫通扉

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1971年に登場し、21世紀に入っても千代田線の主力車両であり続けた6000系ですが、老朽化を理由に16000系への置き換えが進められており、残すところあと1編成となりました。

6000系は地下鉄電車のデザインに大変革をもたらした車輛として知られており、固定編成で運用することを前提として正面の貫通扉は非常用と割り切りました。そのため、運転席からの視界を広くすることや、運転席のスペースを広くとるため、貫通扉の位置がずらされています。

扉はどうなっているかというと、近年の電車では横へスライドして開くのですが、6000系では上から下に開くようになっており、扉の背面は非常階段になっています。のちの7000系・8000系にも踏襲されています。

地下鉄電車では通常、トンネル断面が小さいために車両の両側に避難通路となるスペースがなく、非常時には前後から脱出する必要があるため、必ず正面に貫通扉がついています。千代田線に乗り入れる小田急ロマンスカー「MSE」60000形も、流線型の先頭車に溶け込むような形で貫通扉が設けられています。
近鉄特急などで、地下を走るのに貫通扉がないものがありますが、これはトンネルの断面が大きく、非常時でも側面から脱出できるためです。ただし、架線集電の場合に限ります。第三軌条方式の場合、側面から出ると第三軌条を踏んで感電する恐れがあるため、トンネルが広い場合であっても正面から脱出します。

01系

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1984年の正月にデビューを飾った、営団地下鉄「0シリーズ」の始まりとなる車両です。戦前生まれの電車も多かった銀座線の体質改善とイメージアップのために導入されましたが、登場から30年以上経過し、車体が小さくて機器の追加を伴うリニューアル工事ができないということから、1000系に置き換えられて昨年引退しました。

第29編成の1号車(渋谷寄り)の先頭部を切り取ったうえで、地下鉄博物館にやってきました。

最後までワンマン運行などに対応する改造を行わなかったため、運転席は原形をとどめています。どういうわけか、地下鉄車両の運転台は相互乗り入れなどによる制約が特にない場合、JR西日本や関西圏の私鉄ではおなじみの、加速・ブレーキレバーともに前後に操作するタイプが多くみられます。

運転シミュレーター

地下鉄博物館といえば、なんといっても運転シミュレーターです。4つあり、02系・5000系・6000系・8000系を運転できます。ただし、02系といいながら銀座線を、8000系といいながら有楽町線を走るようになっていますが、これはリニューアルの際に映像を変えたためです。

中でも一番人気は、6000系のシミュレーターです。これはほかの鉄道系の博物館にある、映像だけが動くものではありません。実際の車両の動きも再現されており、本当に6000系を運転しているかのような感覚を味わえます。それもそのはず、本来は本職の運転士の研修に使うものをそのまま入れています。それゆえ、小学生以上しか運転できません。

*1:東京駅には「東西線」の乗換案内がある

*2:千代田線と常磐線の境界駅は綾瀬だが、乗車の仕方によっては北千住~綾瀬もJR線扱いで運賃を計算することがある

*3:北千住で、千代田線と日比谷線東武伊勢崎線を改札を出ないで乗り換えることができる

*4:初期のWN駆動の車両としては、銀座線の2000形、阪急1000系(初代)、近鉄1450形、山陽2000系などがあるが、すべて標準軌だった

Songful Days -次元ヲ紡グ歌ノ記憶-

The Harmonic Elegance~美しき歌姫たちが贈るPremium Night

これまで、アニソンのフェスといえばANIMAX MUSIXなどといったにぎやかなものが主流で、出演者もアイドル寄りの人が大多数を占めていますが、これらのアニソンイベントとは一線を画し、歌をじっくり聞かせることに主眼を置いた「Songful Days」が、先日両国国技館で開催されました。これまでのアニソンイベントが「動」なら、Songful Daysは「静」という位置づけです。

「迷い込んだ森の奥で見つけた音楽会」というコンセプトのもと、ペンライトなどの光物は一切使わず、じっくり、座って聴く、「ライブ」ではなく「コンサート」というのがふさわしい空間を、堪能してきました。

出演者

  • Kalafina
    • Wakana(舞台に向かって右側)
    • Keiko
    • Hikaru(舞台に向かって左側)
  • 茅原実里
  • May'n
  • 吉永真奈(ゲストパフォーマンス)

セットリスト

C:茅原実里 K:Kalafina M:May'n Y:吉永真奈

  1. 君の知らない物語(Y)
  2. 渡月橋*1(Y)
  3. もしも君が願うのなら(M)
  4. Re:REMEMBER(M)
  5. 今日に恋色(M)
  6. ノーザンクロス(M)
  7. ダイアモンド クレバス(M)
  8. You(M)
  9. Shine A Light(M)
  10. サクラサクラ(Y)
  11. 会いたかった空(C)
  12. SELF PRODUCER(C)
  13. 向かい風に打たれながら(C)
  14. PRECIOUS ONE(C)
  15. 境界の彼方(C)
  16. Paradise Lost(C)
  17. Purest note~ あたたかい音(C)
  18. 琴線幻夜(Y)
  19. 樹海幻夢(Y)
  20. 百火撩乱(K)
  21. I have a dream(K)
  22. storia(K)
  23. 光の旋律(K)
  24. アレルヤ(K)
  25. 未来(K)
  26. ring your bell(K)
  27. 鳥の詩(C・K・M)

升席なんて珍しい

生田流箏曲演奏家・吉永真奈のオープニングアクトから始まったSongful Days。まず最初に歌うのは、マクロスFでブレイクを果たしたMay'n部長です。
近年は広く人気を得て曲も増えてきたということもあり、「テンポの速い曲をアコースティックアレンジしたらどうなるか」ということで「今日に恋色」を披露していました。その一方で、アレンジしなくてもそのままいける曲として、マクロスFから「ダイアモンド クレバス」もありました。

いつもと違う雰囲気なので、本人もさることながら観客のほうが固まってしまっていました。「アリーナ! イエー…いいんだよ、『イエー!』って言っても」…(^^;
アリーナ、スタンド、ここまではよくあるのですが、ここは両国国技館。ということで「升席」というのもありました。

今回は、それぞれ1つずつグッズを出してきていましたが、部長は「ヘッドフォン」を出してきました。よく見ると、部長の大好物として知られる「たい焼き」が描かれています。過去にはたい焼きを刺繍したスタジャンが出てきたこともありました。たい焼き器は出たことがあるかな?
どれぐらいイメージが固定化されているかというと、みのりんがブログでたい焼きの話題を出したときに、部長の名前が出てくるほどです。

みのりんとこでおなじみの山本陽介(陽ちゃん)が、今回は部長のバックについていました。

両国の遠い夜空に、部長の歌声がこだましました。(※May'n部長は名古屋の人なので中日ファン

5年ぶりにやってきた

2番手はみのりんです。みのりんのステージは、昨年末の弦楽四重奏ライブの続きといった感じで、衣装もバックバンドも同じでした。巨漢として知られる向井航(本人いわく“日本最重量チェリスト”)も出てきていましたが、力士と比べるとまだ小さいとのことでした(^^; その重量ゆえ、以前のライブでリハーサル中に椅子を壊してしまったこともありましたが、今回は壊していません。

なお、向井さんにマイクを渡すと、1時間しゃべり倒してトークショーになってしまうため、今回はマイクは渡さないとのことでした。
そして、いつものムッシュ…ではなく、大先生もいました。

両国国技館みのりんといえば、2013年のクリスマスライブですが、その時には衣装のベルトが切れるわ、穴に落ちるわ、ハプニング続きでした。もちろんMCではそのことにも触れられていましたが、知らない人が多い中でその話題を出していいのか、と思いました。ただし、今回は穴がないため、落ちる心配はありませんでした。

もう3月ですが、久々に「PRECIOUS ONE」が聞けて、さらにはParadise Lostも聞けて満足です。みのりんには、4つの「P」(Parade、Paradise Lost、PRECIOUS ONE、Purest note)があります。

美しきハーモニーに酔いしれる

最後はKalafinaです。もともとは『空の境界』のために結成されたユニットだったのですが、“まどかマギカ”や『Fate』シリーズなどで広く知られるようになりました。アニメ以外では、NHK総合歴史秘話ヒストリア」のテーマ曲を担当していることでも知られており(もう名刺代わりといってもよい)、近年のアニソン歌手の中では異例なことに、中高年層からの支持も厚いようです。スタンドから升席を見渡すと、「升席に座っているのは、Kalafinaのファンかな?」と思いました。

以前から何曲か聞いており、美しすぎるハーモニーが売りだというのはすでに知っていました。以前、「MUSIC JAPAN」に出演したことがあり、そこで「森のくまさん」を歌って「壮大な“森のくまさん”」というキャプションがつけられていました。

今回初めて生で聞くのですが、やはり、壮大で美しいハーモニーに酔いしれました。神秘的な雰囲気さえも感じます。それでいて、親しみやすさもあります。不勉強を恥じなければならないと思いました。

そのイメージと今回のステージコンセプトから、企画段階でKalafinaを中心に据えて、部長とみのりんが脇を固めるのを念頭に置いていたのでは、と思いました。

そして最後は5人で、“国歌”として知られる「鳥の詩」でした。美しくまとめられており、終わってしまうのが惜しいぐらいでした。みのりんがぼそっと「終わっちゃった」と言っていた、ここに今回のコンサートのすべてが詰まっているような気がします。

1曲ずつ手拍子

今回は座って聞くだけでもありませんでした。1曲ずつ、手拍子を入れる曲があります。部長は「Shine A Light」、みのりんは「purest note~あたたかい音」、Kalafinaは「未来」でした。

*1:オリジナル曲。倉木麻衣のカバーではない

和歌山版227系

www.westjr.co.jp

ここ最近、JR西日本では京阪神地区や北陸特急以外でも新型車両の導入が進んでおり、福知山地区の223系5500番台を皮切りに金沢地区(のちに北陸本線全線に拡大)の521系、広島近郊の227系と、かなりまとまった数が出そろっています。

その中でも、南近畿地区(奈良県和歌山県)では阪和線を除きほとんど新車が投入されておらず、阪和線以外で一番新しいのは大和路線221系という状態でした。特に、ローカル線となっている桜井線・和歌山線では、国鉄末期に電化された際に投入された105系が21世紀にもなって主力となっているという状態でした。
さらに、南近畿地区の105系は、国鉄末期に設備投資を抑えるため、かつて常磐線から千代田線に乗り入れ、203系に置き換えられて余剰となった103系1000番台を改造したものでした。常磐線複々線化と千代田線への乗り入れ開始は1971年であり、103系時代も含めると新造投入から50年近く経過しています。

ちなみに、105系が最初に投入されたのは福塩線宇部線小野田線で、オリジナルの105系は3ドアですが、奈良線和歌山線・桜井線に投入されたものは103系1000番台を改造したので4ドアです。改造車の中には、種車クハ103だったため、顔が103系1000番台のまま変わっていないものもあります。

その105系も、老朽化が著しいうえに、冷房が効かない、乗り心地が悪いなどという欠点ばかり目立つようになり、さらには桜井線・和歌山線ともに乗客の減少に悩まされています。
そこで、新型車両を導入してイメージ向上に出ることになりました。

車両は、広島近郊の227系をベースとした2両編成で、塗装は京阪神地区の225系に近いものとなっています。近年のJR西日本の電車ではおなじみの窓周りの色は、「奈良と和歌山エリアに共通する文化・歴史・自然の奥深さを表現した緑色」です。窓の下の帯にも緑があしらわれています。白帯は省略されました。
ただ、今後は紀勢本線105系和歌山市~和歌山、紀伊田辺~新宮)、113系(御坊~紀伊田辺日根野電車区に出入りするため日根野まで運行)の置き換えで追加投入され、紀勢本線にも本格進出することが予想されますが、紀勢本線にも投入するのであれば、283系などと同じ色のほうが合うような気がします。和歌山線や桜井線といった、森の中を走る路線にはこのデザインで合っています。

広島の227系は転換クロスシートロングシートの組み合わせですが、和歌山の227系は全席ロングシートです。これは、105系に合わせたというのもあるでしょうが、和歌山線では粉河・岩出以西では乗客の増加が著しい(岩出町が単独で「岩出市」になるぐらい)ことや、沿線の高校生が少ない便に集中すること、また桜井線では沿線に遺跡が多いという土地柄、何か出てくると考古学ファンが現地説明会へ向かうため大挙して乗ることがあり、その対策ともいえます。

そのほか、ここ最近の車両(227系・225系100番台・225系5100番台・323系)で導入されている装備も標準装備されます。

ローカル線ならではの装備として、「車載型IC改札機」というものがあります。仰々しい名前がついていますが、路線バスや路面電車ではよく見かけるものです。一般の鉄道車両では水間鉄道などで見られる程度で、JRグループではJR西日本が来年から境線で導入し、和歌山線・桜井線は2番目です。JRの場合、無人駅にはICカード専用の簡易改札機を置くことが多く、車内に置くのは異例です。

ケータイの歴史を探れ!

先週末、両国国技館で開催された「Songful Days」に行ってきました。これに関しては後日書くことにして、今回はその前後に行ってきたスポットのことを書くことにします。

両国国技館の北にある「NTTドコモ墨田ビル」。その1階に、日本の無線通信の歴史が詰まった「NTTドコモ歴史展示スクエア」があります。ここには、日本初の移動電話から自動車電話、ショルダーフォン(平野ノラのネタでおなじみ)、ポケベル、PHS、衛星電話、携帯電話、スマホタブレットといった、電電公社・NTT・NTTドコモの電話機が総勢200台展示されており、一部は実際に手にすることもできます。

船舶電話(港湾電話)

日本で初めての無線電話は、1953年に始まった「港湾電話」でした。これは、東京湾・大阪湾にいる船から電話ができるというものでした。陸上に基地局を置き、航行中の船に置いた電話機と通信するという、現在の携帯電話の基本的な形がこの時すでにできています。

当時の電話機は非常に大きく、通信モジュールだけで配電盤ぐらいの大きさがあり、受話器も固定電話のものが流用されています。さらに、当時は相手の番号をダイヤルするのではなく交換手を呼び出してつないでもらっていたため、電話機にダイヤルがありません。交換手を介さず、直接ダイヤルしてつながるようになったのはもっと後のことです。

現在は衛星電話(ドコモでは「ワイドスター」という)が実用化されてこちらに移行したため、地上に基地局を置くタイプの船舶電話はありません。

自動車電話

船の次は車です。このあたりから、800MHzの電波を使うようになるなど、システムが現在の携帯電話にだいぶ近くなってきました。

ただ、この当時も通信モジュールは非常に大きく、7kgもありました。これをトランクに固定し、受話器を後部座席に置いて使っていました。電源はカーステレオなどと同じく車のバッテリーからとります。

後部座席に置く理由は、当時の主たる客層は大企業の幹部だったためで、運転手つきの高級セダンで移動している際に、会社と連絡を取るために使っていました。実際、料金は非常に高く、基本料は3万円、通話料は6秒10円、さらに保証金として20万円を預ける必要がありました。電話機自体もレンタル品でした。*1
ただし、数は少なかったもののタクシーの乗客向けのものもありました。

デジタル化されてからもしばらく細々と出ていましたが、携帯電話に車載用のオプションが出ており、これらに置き換えられる形で姿を消しました。

現在の携帯電話は自動車電話から発展したシステムであることと、のちに参入してきた携帯電話会社の設立母体に自動車メーカーが入っている*2のは無関係でもなさそうです。

ショルダーフォン

バブル期の象徴として語られることが多いのですが、現在ではそのスタイルがかえって新鮮に映るようで、iPhoneケースにショルダーフォン風のものが出てくるぐらいです。

自動車電話は車に固定して使うものであり、車外に持ち出して使うことはできませんでした。しかし、外で使いたいという需要もあったようで、1985年に登場しました。

端末機は自動車電話をベースとしており、馬鹿でかい通信モジュールを押し込んでいたのと、これまた電池が馬鹿でかかったため、持ち運びできるとはいえ初期型で3kg(スマホ20個分)もありました。持ち運び専用にすることで2.5kgまで軽量化を果たしましたが、これでもスマホ17個分、500mlのペットボトル5本分です。

当時は電子機器の蓄電池といえばニッケルカドミウム電池しかなかったため、あれだけでかい電池を積んでいても連続通話時間は40分でした。

なんと、デジタルショルダーフォンというのもありました。こちらは少し軽量化されていますが、それでもまだ1.5kg(スマホ10個分)あります。

ポケットベル

ポケベルの歴史は携帯電話より古く、1968年に東京23区内でサービスを開始しました。初期のポケベルは音が鳴るだけのもので、外回りの営業マンに持たせて、電話をかけて鳴らして呼び、最寄の公衆電話から電話をかけてもらって連絡を取るという使い方でした。自動車電話より料金がはるかに安かったため、個人向けの移動通信といえば長らくポケベルが主流でした。

1987年には、数字を表示できるものが登場しました。これは本来、表示された番号にかけてほしいという意思表示をするためのものですが、このころポケベルの主たる客層になった女子高生の間でごろ合わせが大流行しだし、女子高生のコミュニケーションツールとして欠かせないものになりました。

末期にはカタカナで文章を送ることができるものも登場し、その際にプッシュホンで文字を入力するためのコード表が出てきました。いわゆる「ポケベル打ち」というもので、現在でもスマホでポケベル打ちができます。

その後、SMS・Eメール対応の携帯電話に顧客が流出し始め、現在個人レベルで持っている人はいないといっていいでしょう。

初期の携帯電話

1987年に登場しました。ようやく、持ち運びができるサイズにまでなりましたが、それでも900gあり、ショルダーフォンと比べて小さくなったことからその分使用時間も短くなっています。また、背中に手を通して使うベルトがついています。

型番は「TZ-802」で、自動車電話「TZ-801」の次世代モデルということになっているようです。さらに小型化した「TZ-803」ものちに登場しました。

超小型携帯電話「mova(ムーバ)」

1989年に登場した、モトローラ「マイクロタック」。これは、当時世界最小の携帯電話でした。日本ではDDIセルラー「HP-501」として発売されました。関西地区で発売したところ、かなり売れたため、一時はNTTよりDDIセルラーのほうが客が多い(関西や沖縄では今でも?)ということもありました。

NTTとしてもこれを黙って見ているわけにもいかず、端末メーカー4社(NECPanasonic富士通三菱電機)とともにマイクロタックより小さい携帯電話を開発し、1991年に「超小型携帯電話・ムーバ」として登場しました。ムーバとは「movable」の最初の4文字です。広告などでは、メーカーを表すアルファベットをつけて「ムーバD(三菱)」「ムーバF(富士通)」「ムーバN(NEC)」「ムーバP(Panasonic)」とし、モデルチェンジするたびに末尾の数字が増やされました。デジタルムーバも当初はアナログムーバと同じ型番でしたが、9600bpsデータ通信に対応した機種には「HYPER」がつき、1996年モデル以降は「メーカーの略号+3ケタの数字+端末のタイプを示すアルファベット」で、2004年以降のFOMA*3にも踏襲され2008年までこのルールで型番が振られていました。

初代モデルの正式な型番はすべて「TZ-804」で、中身もほとんど同じようなものでしたが、形はさまざまで、特に「ムーバN」は現在に至るまでNECの携帯電話ではおなじみの2つ折りタイプでした。

のちに登場したデジタル機は「デジタルムーバ」と言われていましたが、アナログ携帯電話サービスが廃止されると単に「ムーバ」というようになりました。さらに、第3世代携帯電話「FOMA」サービスが始まると、本来は超小型携帯電話の商標名だった「ムーバ」が、第2世代携帯電話サービスの名称として転用され、2012年3月まで使われていました。

なお、「ムーバ」を名乗ることができたのはNTTと共同開発した4社のほかに、内部のソフトウェアにNTT標準のものを使っていた日本無線モトローラ製の機種だけで、他社(ソニー*4・シャープ・東芝など)の機種は2001年までは「ムーバ」ではなく「DoCoMo by ○○」でした。また、メーカーの略号も、「ムーバ」を名乗ることができるメーカーは1文字で、「DoCoMo by ○○」のメーカーは2文字でした。

iモードが始まるまでは、小型化競争が非常に激しく、60g台まで軽量化したものもありました。小さすぎるとかえって使いにくいため、適度なサイズに大型化するということは時折見られます。

また、初期のデジタルムーバまでは、発信・終了ボタンが数字キーの下にありました。

mova」メーカー(いわゆる“電電ファミリー”)

DoCoMo by」の機種を出していたメーカー

PHS

PHSとは、外に持ち出して携帯電話として使えるコードレス電話というべきものです。出力が小さく、大掛かりな設備を必要としないため基地局のコストが小さくすみ、地下の限られたスペースでも基地局を設置しやすいため、地下街や地下鉄では早くから使えるというメリットがあった反面、広いエリアをカバーするには基地局を多数設置する必要があるほか、移動しながら通話が正常に行えないなどというデメリットも抱えていました。なお、現在でも工場などの構内専用のものは広く使われています。

料金が安かったことから、ポケベル同様学生の必須アイテムとみなされていた時期もありましたが、やはり携帯電話に流れたため消滅寸前です。また、かつては携帯電話より速い、最大64kbpsのデータ通信ができることも売りとしていましたが、こちらも携帯電話の通信速度が上がったためアドバンテージを失いました。その当時は、パソコンやPDAに入れて通信することに特化した、電話機型ではないPCカードコンパクトフラッシュ型の端末もありました。

一時期には、デジタルムーバとPHSを掛け合わせてお互いを補完する「ドッチーモ」という電話機も売り出されていました。

腕時計型PHS「WRISTOMO(リストモ)」。のちのスマートウォッチとは異なり、これ1台で電話として使えます。

携帯電話のお供 -iモード普及前夜-

iモードが始まる前は、携帯電話をパソコンやPDA携帯情報端末)につないでインターネットにつないだりメールを送受信することがありました。中にはメール機能に特化したものもありました。

これらを使うことを前提としたサービスとして、1通10円で送れることを売りにした「10円メール」というサービスもやっていました。さらには、「mopera」というプロバイダも運営されています。

iモード全盛期

1999年、携帯電話の歴史が変わりました。話すだけだった携帯電話が、インターネットにつながる。いろいろな使い方ができる。メールも自由にやり取りできる。今までの携帯電話にない使い勝手と目新しさが受けて、他社も追随するほどの大ヒット作となりました。固定電話バージョンとして「Lモード」というのも出てきましたが、こちらはあまりヒットしませんでした。
ただし、人気が出すぎて回線がパンクするということも初期には見られました。

初期の機種は画面が白黒で、ブラウザとメールだけだったのが、カラー画面とカメラ、さらには非接触ICカードを取り入れ、多機能化へまい進していきました。ちなみに、iモードとは関係ありませんが、映っているのは「SO502iWM*6という、今ではすっかり当たり前になった音楽プレーヤー内蔵モデルです。

これは、「iモードFeliCa」を搭載した初期のモデルです。初期には楽天Edyか、ビックカメラのポイントカードぐらいしか対応していなかったのですが、のちにQUICPaySuicananacoWAONなど対応サービスが次々と増えていきました。

これまでの携帯電話は小型化が非常に進んでいましたが、iモードの開始と前後して大型の画面を搭載するようになり、再び大きくなりました。

以前は、iモード対応機はmovaの中でも上位モデルという位置づけがなされており、型番の末尾にiが付いただけではなく、数字は主流だった200番台の上ということで500番台がつけられていました。のちに、200番台の機種もiモードに対応するようになっています。のちにカメラ付きの普及モデルとして250番台が登場しました。
普及しだした時代のFOMAも、movaの500番台と比較してさらに上位という位置づけから900番台がつけられ、普及機として700番台が追加されています。FOMAの900番台と700番台、movaの500番台と200・250番台は同じようなランク付けとなっています。

FOMA

Freedom of Mobile Multimedia Access -マルチメディアへ自由にアクセスできるケータイ-

携帯電話でも、高速大容量で快適なデータ通信を実現させた、それがFOMAです。高速大容量通信を生かして、テレビ電話・動画配信などのサービスが提供されていましたが、movaとは全く互換性がないうえにエリアが狭くてつながりにくく、さらには初期モデルでは電池がすぐ切れるという欠点を抱えていました。これらは、のちのモデルで少しずつ改善されていきました。
初期モデルは型番が数字4ケタ(2000番台)で、movaとは全然違うものというイメージが出来上がりました。2004年以降はmovaからの乗り換えを意識して、型番も数字が3ケタで、末尾にiモードの「i」がつくmovaと同じ方式になり、端末自体もmovaと同じ感覚で使えるようなものになりました。

FOMAカード(現在のドコモUIMカード)に電話番号の情報を書き込み、これを電話機に入れて使います*7。そのため、機種変更する際は新しいやつを買ってきてカードを差し替えれば(サイズが違うなどで交換を伴わない限り)OKです。古いやつを残して故障時などの緊急時に使うというのもあります。

FOMA初期の機種としては、このようなものもありました。

SH2101V」ですが、電話というよりは小さなノートパソコンで、今のスマホみたいなものです。どうやって会話するのかというと、細いワイヤレスの受話器が付いており、これを使います。

スマホの時代へ

以前からスマホらしきものはちょくちょく出てきていましたが、日本での普及前夜のスマホは「HT-01A」や「ビジネスFOMA M1000」などがありました。どちらかというと、ビジネスツールとして売り出されていたようで、docomoの6つのカテゴリー(PRIME・STYLE・SMART・PRO・らくらくホンキッズケータイ)では「PRO」シリーズに属していました。

docomoで初めて本格的に売り出されたスマホは、「Xperia」SO-01Bです。このモデルから、スマホはPROシリーズから独立して「ドコモ スマートフォン」というくくりで出されています。

日本でスマホが本格普及するにあたって、これまでの携帯電話の機能(ワンセグおサイフケータイ・赤外線通信・防水防塵etc.)を盛り込んだものも登場しました。「Xperia acro」SO-02C

*1:後の携帯電話もレンタル品だった。買取制が導入されるのは1994年から

*2:日本移動通信IDO):トヨタ ツーカー:日産 そのため、現在でもトヨタの販売会社でauの携帯電話を取り扱っており、以前はトヨタ限定の携帯電話もあった

*3:初期のFOMAは数字が4ケタだった

*4:もともと、ソニーはDDIセルラーグループ(正確にはその親会社のDDI)の設立母体であり、以前はあまりNTTドコモ向けの機種を出していなかった。同じ理由で京セラもNTTドコモ向けの機種はほとんどなく、DDIセルラーau向けが多い

*5:三菱のMではない。三菱系の企業の商品名によくある「ダイヤモンド」のD

*6:ソニー製のため、型番末尾の「WM」はウォークマンのことかと思われがちだがそうではなく、With Musicの略らしい。その後、「Music Porter」という三菱製の音楽ケータイが出たが、これも末尾に「WM」が付いている

*7:movaまでの携帯電話は、販売店にある専用の装置で電話機に電話番号の情報を書き込んでいた