東京の鉄道小ネタ集・城東地区編

今回は、未開拓だった総武線方面のネタを拾ってきました。

古(いにしえ)のターミナル・両国

現在の総武本線は、各駅停車が御茶ノ水経由で中央線の三鷹まで、快速が錦糸町から隅田川の下をもぐって東京駅まで行き、そこから先は東海道線横須賀線に乗り入れて久里浜まで走っているため、東京都内のターミナルが通過型になっています。

総武本線は、もともと「総武鉄道」という私鉄が建設した路線で、東京と千葉を結ぶ初めての鉄道でしたが、開通は千葉県側が早く、1894年に市川~佐倉が開業しました。西側はすぐに本所(錦糸町)まで延伸されましたが、それ以降は1897年に銚子まで延伸され、千葉県側は完成しました。成田線の一部区間が同時期に開業しています。

西側への延伸は遅れ、1899年に本所~秋葉原までの事業免許を取得した後、1904年に両国橋(当時の駅名)まで延伸されましたが、隅田川を渡るのは資金面などの問題があって後回しになりました。すでに両国橋~本所界隈は市街化しており、高架線で建設することを条件に免許を取得していました。高架線だと建設費がかかるため、何とか地上線にできないかと考えていたようですが、結局は高架線を建設することになりました。この区間は、日本で初めての高架鉄道となっています。
なお、両国橋というのは駅の西側にある隅田川に架かる橋の名前ですが、これはかつて隅田川武蔵国下総国の国境で、国境をまたぐ橋であったことから名づけられました。

長らく総武鉄道(国有化後は総武本線)の東京側の始発駅が両国橋駅であったことにより、千葉方面へのターミナルは両国という時代が長かったのですが、関東大震災の後の復興事業で区画整理が行われ、都心へ乗り入れる線路の用地が確保できるようになり、1932年に現在は緩行線の一部となっている両国~御茶ノ水が開業しました。この区間総武本線で初めて電化された区間で、中央線に乗り入れて中野~両国にシャトル電車が運行されていました。このシャトル電車は現在の中央・総武線各駅停車であり、この電車が発着していたホームが現在の1・2番線です。
両国より東はまだ電化されていなかったため、千葉方面へは両国で乗り換える必要があり、千葉方面への列車は列車ホーム(かつての3~6番線)から発車していました。のちに千葉まで電化されると、総武本線の列車は中野~御茶ノ水~千葉を直通する電車と、千葉より先のSL・気動車列車がメインとなり、両国駅の列車ホームを使う列車は激減しました。

戦後になると房総方面への急行・準急が大増発され、再び列車ホームに賑わいが戻ってきました。一部は緩行線経由で新宿まで行くものもありましたが、両国発着がメインでした。夏になると両国駅の列車ホームは海水浴客でにぎわっていました。この当時の房総地区の在来線は、海水浴客が多数利用するのに合わせて夏場だけダイヤを大幅に組み替えていました。

1972年、「通勤5方面作戦」の一環として総武本線津田沼まで複々線化されましたが、その際に都心側では錦糸町から隅田川の下を抜けて東京駅*1に至る新ルートが建設されました。地下への入り口が、両国駅の北側(国技館と3番線の間)にあり、ホームを作ることができないため、両国駅に快速は止められませんでした。この時に房総方面への特急が設定されましたが、新設された地下線経由で東京駅発着とされました。
ただし、当時は地下線の信号保安装置にATCを採用しており、地下線に入ることができる車両は113系1000番台と183系だけでした。この当時は急行も多数残っており、153系や165系が使用されていましたが、これらの車両にはATCが付いていなかったため、両国発着で残されました。しかし、これらの列車も東京駅発着の特急に置き換えられ、1988年3月のダイヤ改正で両国発着の長距離列車は全廃され、それ以降は中央・総武線各駅停車の途中駅のうちの一つとなっています。かつて使われていた列車ホームのうち、3番線のみ残っており、2010年3月のダイヤ改正までは房総方面に夕刊を輸送する「新聞輸送列車」が使っていました。

なお、両国というのは本来は隅田川の両岸、両国橋の周辺地域のことであり、隅田川の西側(中央区、いわゆる日本橋両国)にも「両国」とつく施設(両国郵便局など)がありますが、両国駅隅田川の東側に開業し、さらには国技館(初代は回向院の境内、2代目は両国駅の北側)が開設されて相撲の興行で全国的に知られるようになり、現在では「両国」というともっぱら隅田川の東側(向両国、東両国)を指すようになりました。

通勤5方面作戦~総武線編~

1960年代、ほかの東京近郊の主要路線と同じく、総武線は朝ラッシュ時を中心に激しい混雑となっていました。そのため、国鉄では1964年に「通勤5方面作戦」を策定しました。5方面というのは、東京を中心に放射状に延びていく主要路線が5つあるために名付けられたもので、東海道線横須賀線含む)、中央線、東北線高崎線含む)、常磐線総武線の5つです。

そのうち、総武線では以下のような内容で輸送力の増強が進められました。

これと前後して、緩行線の電車も101系に置き換えられています。
1968年からは複々線化に先だって、中央線の中野発着で千葉方面(成田・木更津)へ向かう快速が設定されました。中央線側では緩行線の各駅に停車し、御茶ノ水からは秋葉原・両国・新小岩・市川・船橋津田沼・千葉以東の各駅に停車していました。現在の快速とは異なり、御茶ノ水まで快速運転を行っていたほか、稲毛と錦糸町を通過していました。

1972年に東京駅へ乗り入れる地下線と、錦糸町津田沼複々線化が完成しましたが、東京駅への直結線のルートは以下の3案がありました。

  1. 江戸通りの地下を通って東京駅に向かう
  2. 神田川沿いに高架線もしくは地下線を敷設し、神田駅の手前で東北本線と並んで東京駅に向かう
  3. 緩行線沿いに線増し、秋葉原の手前で東北本線と並んで東京駅に向かう

2・3案では用地買収コストがかかりすぎることもあり、最終的には江戸通りの下を通るルートで決定しました。このトンネルは、東京駅を境に総武線側は「総武トンネル」、横須賀線側は「東京トンネル」と呼ばれています。
地下への入り口は、両国駅の貨物取扱設備と6番線の跡地に設けられましたが、この辺りは33.4/1000の急こう配やカーブがあるため、両国駅の快速ホームは設置されませんでした。そのため、東京駅から両国へのアクセスは相変わらず不便で、秋葉原総武緩行線に乗り換えるか、快速で錦糸町まで行ってバックするしかありません。あのとき、もう少し東側から潜って両国駅の地下に快速ホームを作っておけばよかったと思います。隅田川にもう1本橋を架けるとなると、現行の配線では緩行線をまたぐ高々架になってしまい、どこかで潜ろうとするとさらにきつい勾配ができてしまうほか、だからと言って両国駅自体を清澄通りの東側に移転すると今度は国技館から遠くなってしまいます。

ともあれ、津田沼までの複々線化が完成し、1981年には千葉まで複々線化されて現在に至ります。その間、1976年にはすでに品川まで掘っていたトンネルを活用して、東京駅の混雑を緩和するためラッシュ時の快速電車が品川まで乗り入れるようになりました。

隅田川の下を通るトンネルは、地上で作っておいた箱(ケーソン)を川の底に沈め、水中でつなぐ「ケーソン工法」で建設されました。

前述のとおり、トンネル内の信号保安装置は、地下で見通しが悪いことから車内信号式ATC国鉄在来線では初)が採用されました。車両そのものも、長いトンネルを走ることから火災対策に最も力を入れ、運輸省通達「電車の火災事故対策について」の「A-A基準」に即して製造されました。そのため、かつては総武快速線を走れる車両が113系1000番台と183系に限定されていましたが、ATCの老朽化で前後の区間と揃えてATS-Pに更新され、さらに最近の車両は地下を走らない場合でもA-A基準に即して製造されているため、乗り入れられる車輛の制限はなくなりました。

なお、総武本線の起点は1932年以来御茶ノ水でしたが、複々線化と東京駅への乗り入れに合わせて東京駅が起点に変更され、御茶ノ水錦糸町中央本線に接続する支線という扱いになりました。

総武線快速電車の停車駅の変遷

総武線の地下水問題

総武線の地下区間は海に近く、地下水位が非常に高くなっています。特に、昔は地下水を野放図に使い続けた結果あちこちで地盤沈下が発生したこともあり、東京都の条例で地下水のくみ上げが禁止されています。そのせいで、今度は逆に地下水位が上がってしまい、東京駅の総武線ホームが地下5階にあるのに対して、地下水は地下3階相当まで上がっています。トンネルなどの構造物を上から建物で押さえつけているのであればまだよいのですが、東京駅の総武線ホームは丸の内側のロータリーの下で、上に建物はありません。そのため、現在の東京駅総武線ホームは地下水の中に浮いているという状態です。

地下水による被害の例としては、1991年に武蔵野線新小平駅の水没事故がありましたが、これは東西方向の地下水の流れを、南北に走る武蔵野線がせき止めてしまい、水がたまって一気に地下水位が上昇し、大きな浮力がホームにかかり、その浮力でホームが壊れて地下水が噴出したというものです。新小平駅での事故後、JR東日本で同じように地下水の浮力で壊れる恐れがある駅がないか調査したところ、東京駅の総武線ホームと、上野駅の新幹線ホームが地下水の中に浮いており、このまま放置すると浮力でつぶされる恐れがあったため、両駅ともに固い地層までアンカーを打ち込み、重りを置いて浮き上がらないようにしました。
その後、地下水をポンプで排水して水位を低く保つようにする傍ら、立会川・不忍池に流して水質の改善に役立てるという試みもなされています。しかし、そのポンプが泥水を吸い込んで排水できなくなり、トンネル内に水を溢れさせてしまい、総武線横須賀線が半日止まってしまったということがありました。

また、地下水が原因でトンネル内の各種部品やボルトがさび付いてしまい、壁がはがれてしまう恐れもあったほか、初代「成田エクスプレス253系は地下水が原因で老朽化が早く進行し、20年たたないうちにE259系に置き換えられたとまで言われています。

東京都内なのに?

東京都内のJR東日本の各線を管轄しているのは、当然東京支社…というわけではありません。JRの支社の区分けは、おおむね国鉄時代の鉄道管理局のエリアと一致します。東京支社のエリアは、かつての東京3局(南・西・北)に当たり、総武線は東京南局のエリアに当たります。

ところが、隅田川から東側は下総国であり、そのせいかどうかわかりませんが総武線の両国以東は千葉局のエリア内でした。複々線化後は、緩行線は浅草橋と両国の間に、快速線は総武トンネルの出入り口に東京南局と千葉局の境界がありました。これが民営化後も踏襲され、東京支社と千葉支社の境界は両国・錦糸町の西側に置かれており、両駅構内は千葉支社の管轄になっています。

そのため、両国~新小岩は東京都内なのに千葉支社の管轄下にあるという状態になっています。のちに開通した京葉線も、東京駅へ至る地下線は東京支社、地上に出ると千葉支社の管轄です。ただし、総武線の指令は千葉まで東京支社の担当で、逆に京葉線の指令は東京駅まで千葉支社の担当です。

浅草~北千住のルート

東武伊勢崎線は、浅草駅を出るとすぐ東へカーブして隅田川を渡りますが、これはもともと都心側の起点が北千住だったことによるもので、さらに奥まで延伸するのに、ルート選定が難航を極めたためです。
吾妻橋(→浅草(初代)→業平橋とうきょうスカイツリー)まではすぐに開通できましたが、この時は隅田川を渡るのを避けたため、北千住を出ると東へカーブして荒川と隅田川の間を縫って走るようなルートで吾妻橋まで至りました。その後も、当時の東京最大の繁華街だった浅草までの乗り入れを目指して京成電鉄と争っていましたが、京成が汚職事件を起こしたことから、浅草乗り入れの認可は東武に与えられ、1931年にようやく現・浅草駅への乗り入れを果たしました。その後、京成は上野へ乗り入れを果たし、浅草乗り入れも都営浅草線経由で実現させています。
戦後は浅草の地位が相対的に低下し、東武としても都心乗り入れ、山手線との接続を果たすため、新橋や東京駅への地下線の免許を申請し続けていましたが、すべて却下されました。山手線との接続は北千住から日比谷線に乗り入れることで果たされました。待望の都心直通ルートを手に入れ、利便性が向上したため、浅草~北千住の乗客が減少したのを補って余りあるほどの効果を得ました。

北千住から浅草まで行こうと思えば、まっすぐ南下して南千住経由で行けるのではないかと思うでしょうが、一気に浅草まで乗り入れたわけではなく、都心側のターミナル駅の確保に苦労させられ、さらに隅田川を渡ることを避けたため、あのような形になってしまっています。北千住からまっすぐ業平橋まで行こうと思えば、隅田川を最低2回渡る必要があります。

地下鉄なのに竜巻で?

東京メトロ東西線といえば、南砂町西船橋の14kmにわたる地上区間です。これは、浦安や市川周辺は埋立地で地盤が弱く地下にトンネルを掘ることが難しかったことや、地上に作ったほうが建設費が大幅に安くなること、さらに昔は周りに何もなく地価が安かったため*3、用地確保もしやすかったという事情があります。何もなかったところに線路を敷いたため線形は非常によく、この区間では快速が東京メトロ最速の100km/hで走行しています。

南砂町を出て地上に上がると、地下鉄なのに1200mもある鉄橋があります。「荒川中川橋梁」で、荒川と中川の合流地点よりわずかに上流にかけられています。

この荒川中川橋梁で、1978年に竜巻で吹き飛ばされて10両編成のうち2両が脱線・転覆するという事故がありました。その当時、テレビのニュース速報で「地下鉄電車が突風で転覆」と出ており、知らない人は「なぜに地下鉄の電車が突風で転覆するかな?」と思ったとのことです。

実際に乗ってみると、あの辺りは海の近くで、風を遮るものがほとんどないため、突風が吹くと近年の軽い電車ではよく揺れるのではないかと思いました。ただ、あの事故の原因は竜巻であり、セミステンレス・オールステンレス・アルミ・普通鋼のどの車体であっても、竜巻にやられたら一発アウトです。のちに羽越本線485系が竜巻で飛ばされ、死者が出るという事故も発生しました。

なお、脱線した2両は現場がトラス橋の上のために搬出が難しかったことから、現地で解体され、同じ番号で改めて作り直されています。

*1:総武線から東京駅へ向かう乗客が多く、秋葉原駅はパンク状態だった

*2:その後、品川まで延伸し横須賀線に乗り入れ。いわゆる“SM分離”も5方面作戦の一環である

*3:この「地価が安い」と「都心直結」という点から住宅地として脚光を浴び、のちに著しい混雑に悩まされることになる

あんなに一緒だったのに

 アニメソング界で絶大な人気を誇る女性3人組ボーカルユニット「Kalafina(カラフィナ)」が、今春にも3人体制での活動に終止符を打つことが12日、スポーツ報知の取材で分かった。同じ所属事務所の音楽プロデューサーで、08年のデビュー以来、全楽曲を手掛けてきた梶浦由記氏が先月20日に退社したことを巡って、メンバー間に亀裂が生じたとみられる。

 昨年12月に一部で梶浦氏の退社が報じられて以降、事務所に残留するか退社するかで、メンバーに動揺が広がっていた。全幅の信頼を寄せてきた梶浦氏を欠き、これまで通りの楽曲制作は不可能に。梶浦氏不在のままのユニット存続に疑念を抱くメンバーが今月末での脱退を決め、分裂することになった。

 関係者によると、今後の3人でのCDリリース、ライブの予定は白紙の状態。また、10年からレギュラー出演するbayfmKalafina倶楽部」(火曜・深夜0時)が今月で終了する。今後、残留メンバーだけでユニットを存続させ、他アーティストとの共演などを模索していくという。

 高音のWakana、低音のKeiko、中音のHikaruが織りなす独特のハーモニーが魅力のKalafina。09年からNHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌を歌うほか、数々のアニメでテーマ曲を担当して人気に。今年1月23日に日本武道館でデビュー10周年ライブを行い、新たなスタートを切ったばかりだった。

 11日に都内で出演した音楽イベントが3人で行う最後のライブになった。普段と変わらぬ抜群のハーモニーを聴かせた一方、最後に感極まって涙を流すメンバーもいた。3人は30日に都内でドキュメント映画の初日舞台あいさつに立つ予定で、発言が注目される。


 ◆Kalafina(カラフィナ) Wakana、Keiko、Hikaru(いずれも年齢非公表)の3人組ボーカルユニット。2008年1月、劇場版アニメ「空の境界」の主題歌「oblivious」でデビュー。NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌「storia」、人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」のテーマ曲「magia」などを担当。中国、台湾などで単独公演を行い、北米や欧州で多数の音楽イベントに出演し、海外でも高い人気を誇る。

(「スポーツ報知」2018年3月13日)

先日の「Songful Days」で初めて耳にして、その美しすぎるハーモニーにすっかり魅了されたのですが、残念ながら3人そろった姿を見るのはこれが最初で最後になりそうです。

昨年末に、梶浦さんが事務所を退社するというニュースが飛び込んできて、梶浦さんのおかげで成り立っていたKalafinaにも影響が出ることは避けられないという風になりました。実際、1月の10周年記念武道館公演以降はスケジュールが白紙(のちにSongful Daysに出演決定)になっていました。
その時のスポニチの記事がこちらです。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態。20億円以上を稼ぎ出すとみられる2組が「離脱」と「活動休止」となれば事務所にも甚大な影響を及ぼすことになる。

 年末にかけてローラ(27)や西内まりや(23)ら有名タレントと所属事務所とのトラブルが相次ぐ中、芸能界が新たな収益先として注目するアニメ界を揺るがす独立劇が起きた。

 梶浦氏は「魔法少女まどか☆マギカ」などの人気アニメを中心に活躍する劇伴奏の第一人者。NHK朝の連続テレビ小説花子とアン」などの音楽も担当しており、ここ数年で手掛けたCDの総売り上げは200万枚を超える。複数の関係者によると、来年2月に退社し、今後はフリーで活動するとみられる。楽曲に関する権利については弁護士を通じて事務所側と話し合いを続けているという。

 音楽関係者によると、昨年9月に開催したカラフィナの武道館公演までは梶浦氏を育てた音楽プロデューサーA氏が現場を担当していたが、女性幹部に交代。音楽の方向性の違いなどで、梶浦氏と女性幹部の間でトラブルになっていたという。今年6月にA氏が事務所を退社したこともあり、音楽スタッフの1人は「梶浦さんは女性幹部との折り合いがよくなかった上に、芸能界に引っ張ってくれた恩人がいなくなったことで退社を決意したようです」と話した。

 梶浦氏がプロデュースし、NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌などを歌うカラフィナも来年1月23日の結成10周年を記念した日本武道館公演以降のスケジュールがほとんど白紙状態となっている。来春の映画公開や楽曲のリリース予定はあるものの、梶浦氏が離れることから活動休止も検討しているという。事務所側はスポニチ本紙の取材に「そんな事実はありません。ただ3月以降の契約については把握していません」と説明した。

 音楽関係者は「カラフィナで年間の売り上げは10億円は下らない。梶浦さんも実は隠れ長者。劇伴奏が多いのでカラフィナ以上に稼いでいる。あとは権利に関しての契約がどうなるか」と指摘した。神田うの(42)、栗山千明(33)らが所属する老舗事務所にとっても大幅な売り上げダウンとなれば、経営の根幹を揺るがしかねない可能性がある。


 ◆梶浦 由記(かじうら・ゆき)年齢非公表。1993年にユニット「See-Saw」のキーボードとしてデビュー。ユニットの活動休止以降は作詞・作曲を中心に活動し、ソロプロジェクト「Fiction Junction」として、ボーカリストを招いて楽曲をリリース。テレビアニメ「ソードアート・オンライン」、NHK連続テレビ小説花子とアン」など、多くの作品でサウンドトラックを手掛けた。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態となっている。

 カラフィナはこの日、都内でクリスマスライブを開催し、3月30日に初のドキュメンタリー映画を公開することを発表した。メンバーのKeiko(年齢非公表)は「私たちが歌ってきた音楽が見えるものになっている」と自信。Hikaru(年齢非公表)は「可能な限り音楽を通じてファンの皆さんと会話をしたいなと思います」と話していた。


 ◆Kalafina 08年にアニメ映画「空の境界(からのきょうかい)」の主題歌「obluvious」でデビュー。高音をWakana、中音をHikaru、低音をKeikoと、異なる音域を担当する3人によるハーモニーが特徴。アニメソングを中心に活動し、代表曲に「魔法少女まどか☆マギカ」エンディングテーマの「Magia」、「アルスラーン戦記」エンディングテーマの「One Light」など。

(「スポーツニッポン」2017年12月23日)

この時は、梶浦さんの独立騒動にKalafinaも巻き込まれるのではないかと言われていたのですが、事務所・本人からは何もコメントがありませんでした。緘口令が敷かれているのか、それとも本当に何も知らないのか、外部の人間は何もわかりません。

そんな中で、1月23日に武道館公演が開催され、成功裏に終わりました。そして2月になって、梶浦さんから退社の報告がありました。

 アニメや映画のサウンドトラックなどを手掛ける音楽プロデューサー・梶浦由記氏が21日、所属事務所「スペースクラフト」を退社したことを自身のツイッターで報告した。関係者によると、20日付で退社した。

 梶浦氏は「わたくしこの度所属事務所より独立させて頂くこととなりました」と報告。「思えばスペースクラフトプロデュースさんには長らくお世話になりました……20年以上ですから。今は有難くも心躍るようなお仕事に多々携わらせて頂いておりますが、そうでない時期もございました。その間も支え続けて下さった事も含めて感謝の言葉しかありません」とした。

 今後については「長期間に渡って色々な事を学ばせて頂きましたが、ここらでそろそろ自分で頑張ってみようかなと。今後も勿論音楽のお仕事は続けて参りたいと思っております」と記した。

 女性3人組ボーカルユニット・Kalafina、歌手・春奈るな(26)らに楽曲を提供している梶浦氏。「今までお世話になった同事務所の歌い手さんたちや、Kalafinaについては……いる場所が変わってしまいますので今まで通りと言うわけには参りませんでしょうが、今後も微力ながら応援して参りたい気持ちに変わりはございません♪」とつづった。

 梶浦氏は、1993年に女性2人組ユニット「See-Saw」としてメジャーデビュー。人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」などアニメ音楽を数多く手掛けるカリスマ的存在で、14年にはNHK連続テレビ小説花子とアン」の音楽を担当した。

(「スポーツ報知」2018年2月21日)

さて、この中にある「いる場所が変わってしまいますので」というくだりをどのように受け取ればいいのでしょうか。もし、梶浦さんがKalafinaのプロデュースから離れるという意味だとすれば、それはユニット自体の存続の危機ということを意味します。その後、メンバー間で今後の活動に関して軋轢があったようで、「梶浦さん抜きでやっていけない」といったのが誰かはわかりませんが、今月いっぱいで脱退し、残ったメンバーだけでやっていくことも検討しているようです。

しかし、古くからのファンからは「3人そろっていなければKalafinaではない」「あのハーモニーを生み出せるのは梶浦さんがいてこそ」という声も聞かれます。となると、活動休止、最悪の場合解散も避けられないような気がします。

これは深読みしすぎだと思いますが、Songful Daysのラストでみのりんがポツリとつぶやいた「…終わっちゃった」も、また別の意味にとれるでしょう。「3人そろったKalafinaと共演するのは、これが最後ではないか」と、みのりんも薄々感づいていたのではないかと思います。特に、みのりん自身も2度にわたる独立騒動があっただけに、他人事とは思っていないような気がします。

この騒動は、2016年のSMAP解散騒動を思わせます。構図が全く同じです。

地下鉄博物館

関東地方の鉄道にまつわる博物館といえば、JR東日本の「鉄道博物館」、東急電鉄の「電車とバスの博物館」、東武鉄道の「東武博物館」などがありますが、今回は東京メトロの「地下鉄博物館」に行ってきました。

場所は東西線葛西駅の高架下で、東京駅からだと大手町まで歩いてから東西線に乗り*1、各駅停車で17分です。東陽町西船橋の快速運転区間内に入っており、快速は止まらないので注意が必要です。

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入り口の横に、地下鉄の台車と、開館当時(1986年)に営業していた都営地下鉄も含む10路線の色をあしらったレリーフがあります。

南北線都営大江戸線の最初の区間は1991年に、副都心線は2008年に開業

入ってみよう

入館券は、団体客でもない限り券売機で買うのですが、食堂などで見られるものを流用しています。もっとも、他社の博物館でもそのあたりは同じです。PASMOをはじめとする各種ICカードの使用も可能です。

入り口では本物の自動改札機を流用しており、平日はここに入館券を通して入館します。休日には、その昔どの駅でも見られた改札ブースがあり、そこで係員に切符を切ってもらいます。

改札の横には昔の自動券売機があります。上の行燈には「営団線 全線」と書かれているほか、大人用と子供用のボタンが分かれており(昔の券売機ではよく見られた)、さらに連絡切符の選択ボタンも、「国鉄線(北千住経由)*2」、「小田急線(代々木上原経由)」、「東武線(北千住経由)*3」、「都営線連絡」となっています。実際に中野新橋駅で使用され、2013年まで入館券の販売機として使われていたものですが、操作盤は1984年当時の千代田線のどこかの駅でのものをボール紙に印刷して貼り付けて再現しています。

その昔、自動券売機といえば単一の券種しか発行できないものが大多数を占めていました。他社では早いうちに多機能型に置き換えられましたが、営団地下鉄には160円もしくは190円専用の券売機が平成どころか21世紀になっても、東京メトロになってからも2006年まで残っていました。こちらは展示されていませんでした。

お出迎え

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中に入ると、かつての丸ノ内線の主役だった300形(C#301)がお出迎えです。300形は、丸ノ内線の第一期区間(池袋~御茶ノ水)が開業時に30両が揃えられました。

特徴は何と言っても赤い車体に白い帯で、帯には正弦波(サインウェーブ)があしらわれています。長年にわたって活躍したということもあり、「丸ノ内線といえばサインウェーブ」というイメージが出来上がっています。のちに02系のリニューアル工事を行った際、サインウェーブが復活しました。

足回りは、当時電車の技術では最先端を行っていたアメリカで広く使われていた技術を、三菱電機を経由して取り入れ、その後の日本の電車の技術向上に一役買いました。そのうちの一つが、高回転型のモーターと組み合わされたWN駆動装置で、現在の地下鉄の標準的なシステムとなっています。構造上高出力に耐えられるというメリットがあるのですが、継手が大きく場所をとり、その分モーターが小さくなって出力も落ちるため、日本で標準的だった1067mm軌間の路線では普及が遅れ、丸ノ内線をはじめとする標準軌の電車*4で先に普及しています。

1988年から02系を導入して置き換えることになると、置き換えられた車両は日本橋三越で40万円で売り出されていたほか、大多数はアルゼンチンに輸出され現地でも主力車両として活躍していました。しかし、アルゼンチンでも老朽化に伴い故障が多発して引退することになり、4両が東京へ戻ってきました。現在は中野車両基地で動態保存されています。

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銀座線の初代車両、東京地下鉄道1000形です。浅草~上野が開業した1927年に導入されたもので、現在の銀座線の主力車両・1000系のモチーフとなりました。

一般の鉄道でも同じことですが、地下鉄で一番怖いのは車両火災です。当時の電車は木造が当たり前で、ようやく鋼材を併用し始めたという段階でした。木材を排除してすべて鋼材で作るようになったのは、前年に登場した阪急600形がありますが、この電車は関東では初めての全鋼製車両です。全鋼製車両でありながら、木造車と同じムードを演出するため、内装は木目調の塗装をしていました。

色は現在の1000系と同じ黄色ですが、これはトンネルの中でも明るく目立つように、ということで、ベルリンの地下鉄からヒントを得ています。ただし、時が下るにつれて濃くなり、黄色というよりオレンジに近づいていきました。01系では黄色が消えましたが、1000系で復活しました。
のちの名古屋市営地下鉄でも、初期の車両は同じ理由で黄色く塗られていました。

この当時の車両で、すでに車両間の転落防止柵が取り付けられています。ただし、現在の車両とは異なり車体の四隅についているのではなく、点対称になっています。

戦後になって台車を交換しており、その時に外された台車の一部は山陽電車で1980年まで使われていました。その台車は里帰りを果たし、C#1001の復元に役立てられました。当時はまだ地下鉄博物館がなかったため、代わりに神田須田町交通博物館で保存され、地下鉄博物館の開館にあたって移設されました。

なお、この当時の車両番号のフォントは一般的なもので、営団地下鉄独特のものではありませんでした。

1977年に日本での地下鉄開業50周年を記念して発行された切手には、銀座線の1000形と、神戸市営地下鉄の1000形が描かれていました。銀座線の1000形は日本初の地下鉄電車、神戸市営地下鉄の1000形は当時最新鋭の地下鉄電車ということで選ばれました。

自動改札機

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改札の自動化はかなり早くから考えられていたようです。これは、浅草~上野の開業時に使われていたターンスタイル式の自動改札機です。
現在の磁気券やICカードを使う改札機とは異なり、10銭硬貨を入れてバーを押して通るタイプです。これは、当時の銀座線の運賃は10銭均一という、現在でも大都市の路線バスや路面電車でみられる運賃制度を取っていたためです。このため、開通日の乗車券というものはありません。1931年に神田まで延伸した際に運賃が区間制になったため、このタイプの改札機は廃止されました。
現在見られる磁気券を用いる自動改札機は、1974年に恵比寿・中野坂上・池袋(有楽町線)・銀座一丁目で試験導入されましたが、当時は関東地区ではあまり普及が進まず、本格的な普及は1990年代まで待つことになります。

地下鉄博物館に置いてあるレプリカは、5・10・50・100円硬貨を入れて通ることができます。

駅ナカ

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東京地下鉄道は早くから駅ナカビジネスに取り組んでいました。「地下鉄ストア」や「地下鉄食堂」がこれに当たり、現在の「メトロ・エム」や「Echika」に発展します。その目的は、乗客誘致と収益確保のためで、先に開業した梅田の阪急百貨店と目指すところは同じでした。

まず浅草で地下鉄食堂を開業したのを皮切りに、上野や神田須田町にも展開していましたが、営団に改組されたのと前後して消滅しました。しかし、神田須田町の地下鉄ストアは、当時入居していたテナントに営業を継続してもよいと通達していたため、21世紀になっても一部のテナントが営業していました。最後まで残ったテナントとしては「地下鉄歯科診療所」や「地下鉄美容室」があり、中には看板に書いてある電話番号が、市内局番が3ケタのままになっていたということもありました。

6000系の貫通扉

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1971年に登場し、21世紀に入っても千代田線の主力車両であり続けた6000系ですが、老朽化を理由に16000系への置き換えが進められており、残すところあと1編成となりました。

6000系は地下鉄電車のデザインに大変革をもたらした車輛として知られており、固定編成で運用することを前提として正面の貫通扉は非常用と割り切りました。そのため、運転席からの視界を広くすることや、運転席のスペースを広くとるため、貫通扉の位置がずらされています。

扉はどうなっているかというと、近年の電車では横へスライドして開くのですが、6000系では上から下に開くようになっており、扉の背面は非常階段になっています。のちの7000系・8000系にも踏襲されています。

地下鉄電車では通常、トンネル断面が小さいために車両の両側に避難通路となるスペースがなく、非常時には前後から脱出する必要があるため、必ず正面に貫通扉がついています。千代田線に乗り入れる小田急ロマンスカー「MSE」60000形も、流線型の先頭車に溶け込むような形で貫通扉が設けられています。
近鉄特急などで、地下を走るのに貫通扉がないものがありますが、これはトンネルの断面が大きく、非常時でも側面から脱出できるためです。ただし、架線集電の場合に限ります。第三軌条方式の場合、側面から出ると第三軌条を踏んで感電する恐れがあるため、トンネルが広い場合であっても正面から脱出します。

01系

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1984年の正月にデビューを飾った、営団地下鉄「0シリーズ」の始まりとなる車両です。戦前生まれの電車も多かった銀座線の体質改善とイメージアップのために導入されましたが、登場から30年以上経過し、車体が小さくて機器の追加を伴うリニューアル工事ができないということから、1000系に置き換えられて昨年引退しました。

第29編成の1号車(渋谷寄り)の先頭部を切り取ったうえで、地下鉄博物館にやってきました。

最後までワンマン運行などに対応する改造を行わなかったため、運転席は原形をとどめています。どういうわけか、地下鉄車両の運転台は相互乗り入れなどによる制約が特にない場合、JR西日本や関西圏の私鉄ではおなじみの、加速・ブレーキレバーともに前後に操作するタイプが多くみられます。

運転シミュレーター

地下鉄博物館といえば、なんといっても運転シミュレーターです。4つあり、02系・5000系・6000系・8000系を運転できます。ただし、02系といいながら銀座線を、8000系といいながら有楽町線を走るようになっていますが、これはリニューアルの際に映像を変えたためです。

中でも一番人気は、6000系のシミュレーターです。これはほかの鉄道系の博物館にある、映像だけが動くものではありません。実際の車両の動きも再現されており、本当に6000系を運転しているかのような感覚を味わえます。それもそのはず、本来は本職の運転士の研修に使うものをそのまま入れています。それゆえ、小学生以上しか運転できません。

*1:東京駅には「東西線」の乗換案内がある

*2:千代田線と常磐線の境界駅は綾瀬だが、乗車の仕方によっては北千住~綾瀬もJR線扱いで運賃を計算することがある

*3:北千住で、千代田線と日比谷線東武伊勢崎線を改札を出ないで乗り換えることができる

*4:初期のWN駆動の車両としては、銀座線の2000形、阪急1000系(初代)、近鉄1450形、山陽2000系などがあるが、すべて標準軌だった

Songful Days -次元ヲ紡グ歌ノ記憶-

The Harmonic Elegance~美しき歌姫たちが贈るPremium Night

これまで、アニソンのフェスといえばANIMAX MUSIXなどといったにぎやかなものが主流で、出演者もアイドル寄りの人が大多数を占めていますが、これらのアニソンイベントとは一線を画し、歌をじっくり聞かせることに主眼を置いた「Songful Days」が、先日両国国技館で開催されました。これまでのアニソンイベントが「動」なら、Songful Daysは「静」という位置づけです。

「迷い込んだ森の奥で見つけた音楽会」というコンセプトのもと、ペンライトなどの光物は一切使わず、じっくり、座って聴く、「ライブ」ではなく「コンサート」というのがふさわしい空間を、堪能してきました。

出演者

  • Kalafina
    • Wakana(舞台に向かって右側)
    • Keiko
    • Hikaru(舞台に向かって左側)
  • 茅原実里
  • May'n
  • 吉永真奈(ゲストパフォーマンス)

セットリスト

C:茅原実里 K:Kalafina M:May'n Y:吉永真奈

  1. 君の知らない物語(Y)
  2. 渡月橋*1(Y)
  3. もしも君が願うのなら(M)
  4. Re:REMEMBER(M)
  5. 今日に恋色(M)
  6. ノーザンクロス(M)
  7. ダイアモンド クレバス(M)
  8. You(M)
  9. Shine A Light(M)
  10. サクラサクラ(Y)
  11. 会いたかった空(C)
  12. SELF PRODUCER(C)
  13. 向かい風に打たれながら(C)
  14. PRECIOUS ONE(C)
  15. 境界の彼方(C)
  16. Paradise Lost(C)
  17. Purest note~ あたたかい音(C)
  18. 琴線幻夜(Y)
  19. 樹海幻夢(Y)
  20. 百火撩乱(K)
  21. I have a dream(K)
  22. storia(K)
  23. 光の旋律(K)
  24. アレルヤ(K)
  25. 未来(K)
  26. ring your bell(K)
  27. 鳥の詩(C・K・M)

升席なんて珍しい

生田流箏曲演奏家・吉永真奈のオープニングアクトから始まったSongful Days。まず最初に歌うのは、マクロスFでブレイクを果たしたMay'n部長です。
近年は広く人気を得て曲も増えてきたということもあり、「テンポの速い曲をアコースティックアレンジしたらどうなるか」ということで「今日に恋色」を披露していました。その一方で、アレンジしなくてもそのままいける曲として、マクロスFから「ダイアモンド クレバス」もありました。

いつもと違う雰囲気なので、本人もさることながら観客のほうが固まってしまっていました。「アリーナ! イエー…いいんだよ、『イエー!』って言っても」…(^^;
アリーナ、スタンド、ここまではよくあるのですが、ここは両国国技館。ということで「升席」というのもありました。

今回は、それぞれ1つずつグッズを出してきていましたが、部長は「ヘッドフォン」を出してきました。よく見ると、部長の大好物として知られる「たい焼き」が描かれています。過去にはたい焼きを刺繍したスタジャンが出てきたこともありました。たい焼き器は出たことがあるかな?
どれぐらいイメージが固定化されているかというと、みのりんがブログでたい焼きの話題を出したときに、部長の名前が出てくるほどです。

みのりんとこでおなじみの山本陽介(陽ちゃん)が、今回は部長のバックについていました。

両国の遠い夜空に、部長の歌声がこだましました。(※May'n部長は名古屋の人なので中日ファン

5年ぶりにやってきた

2番手はみのりんです。みのりんのステージは、昨年末の弦楽四重奏ライブの続きといった感じで、衣装もバックバンドも同じでした。巨漢として知られる向井航(本人いわく“日本最重量チェリスト”)も出てきていましたが、力士と比べるとまだ小さいとのことでした(^^; その重量ゆえ、以前のライブでリハーサル中に椅子を壊してしまったこともありましたが、今回は壊していません。

なお、向井さんにマイクを渡すと、1時間しゃべり倒してトークショーになってしまうため、今回はマイクは渡さないとのことでした。
そして、いつものムッシュ…ではなく、大先生もいました。

両国国技館みのりんといえば、2013年のクリスマスライブですが、その時には衣装のベルトが切れるわ、穴に落ちるわ、ハプニング続きでした。もちろんMCではそのことにも触れられていましたが、知らない人が多い中でその話題を出していいのか、と思いました。ただし、今回は穴がないため、落ちる心配はありませんでした。

もう3月ですが、久々に「PRECIOUS ONE」が聞けて、さらにはParadise Lostも聞けて満足です。みのりんには、4つの「P」(Parade、Paradise Lost、PRECIOUS ONE、Purest note)があります。

美しきハーモニーに酔いしれる

最後はKalafinaです。もともとは『空の境界』のために結成されたユニットだったのですが、“まどかマギカ”や『Fate』シリーズなどで広く知られるようになりました。アニメ以外では、NHK総合歴史秘話ヒストリア」のテーマ曲を担当していることでも知られており(もう名刺代わりといってもよい)、近年のアニソン歌手の中では異例なことに、中高年層からの支持も厚いようです。スタンドから升席を見渡すと、「升席に座っているのは、Kalafinaのファンかな?」と思いました。

以前から何曲か聞いており、美しすぎるハーモニーが売りだというのはすでに知っていました。以前、「MUSIC JAPAN」に出演したことがあり、そこで「森のくまさん」を歌って「壮大な“森のくまさん”」というキャプションがつけられていました。

今回初めて生で聞くのですが、やはり、壮大で美しいハーモニーに酔いしれました。神秘的な雰囲気さえも感じます。それでいて、親しみやすさもあります。不勉強を恥じなければならないと思いました。

そのイメージと今回のステージコンセプトから、企画段階でKalafinaを中心に据えて、部長とみのりんが脇を固めるのを念頭に置いていたのでは、と思いました。

そして最後は5人で、“国歌”として知られる「鳥の詩」でした。美しくまとめられており、終わってしまうのが惜しいぐらいでした。みのりんがぼそっと「終わっちゃった」と言っていた、ここに今回のコンサートのすべてが詰まっているような気がします。

1曲ずつ手拍子

今回は座って聞くだけでもありませんでした。1曲ずつ、手拍子を入れる曲があります。部長は「Shine A Light」、みのりんは「purest note~あたたかい音」、Kalafinaは「未来」でした。

*1:オリジナル曲。倉木麻衣のカバーではない

和歌山版227系

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ここ最近、JR西日本では京阪神地区や北陸特急以外でも新型車両の導入が進んでおり、福知山地区の223系5500番台を皮切りに金沢地区(のちに北陸本線全線に拡大)の521系、広島近郊の227系と、かなりまとまった数が出そろっています。

その中でも、南近畿地区(奈良県和歌山県)では阪和線を除きほとんど新車が投入されておらず、阪和線以外で一番新しいのは大和路線221系という状態でした。特に、ローカル線となっている桜井線・和歌山線では、国鉄末期に電化された際に投入された105系が21世紀にもなって主力となっているという状態でした。
さらに、南近畿地区の105系は、国鉄末期に設備投資を抑えるため、かつて常磐線から千代田線に乗り入れ、203系に置き換えられて余剰となった103系1000番台を改造したものでした。常磐線複々線化と千代田線への乗り入れ開始は1971年であり、103系時代も含めると新造投入から50年近く経過しています。

ちなみに、105系が最初に投入されたのは福塩線宇部線小野田線で、オリジナルの105系は3ドアですが、奈良線和歌山線・桜井線に投入されたものは103系1000番台を改造したので4ドアです。改造車の中には、種車クハ103だったため、顔が103系1000番台のまま変わっていないものもあります。

その105系も、老朽化が著しいうえに、冷房が効かない、乗り心地が悪いなどという欠点ばかり目立つようになり、さらには桜井線・和歌山線ともに乗客の減少に悩まされています。
そこで、新型車両を導入してイメージ向上に出ることになりました。

車両は、広島近郊の227系をベースとした2両編成で、塗装は京阪神地区の225系に近いものとなっています。近年のJR西日本の電車ではおなじみの窓周りの色は、「奈良と和歌山エリアに共通する文化・歴史・自然の奥深さを表現した緑色」です。窓の下の帯にも緑があしらわれています。白帯は省略されました。
ただ、今後は紀勢本線105系和歌山市~和歌山、紀伊田辺~新宮)、113系(御坊~紀伊田辺日根野電車区に出入りするため日根野まで運行)の置き換えで追加投入され、紀勢本線にも本格進出することが予想されますが、紀勢本線にも投入するのであれば、283系などと同じ色のほうが合うような気がします。和歌山線や桜井線といった、森の中を走る路線にはこのデザインで合っています。

広島の227系は転換クロスシートロングシートの組み合わせですが、和歌山の227系は全席ロングシートです。これは、105系に合わせたというのもあるでしょうが、和歌山線では粉河・岩出以西では乗客の増加が著しい(岩出町が単独で「岩出市」になるぐらい)ことや、沿線の高校生が少ない便に集中すること、また桜井線では沿線に遺跡が多いという土地柄、何か出てくると考古学ファンが現地説明会へ向かうため大挙して乗ることがあり、その対策ともいえます。

そのほか、ここ最近の車両(227系・225系100番台・225系5100番台・323系)で導入されている装備も標準装備されます。

ローカル線ならではの装備として、「車載型IC改札機」というものがあります。仰々しい名前がついていますが、路線バスや路面電車ではよく見かけるものです。一般の鉄道車両では水間鉄道などで見られる程度で、JRグループではJR西日本が来年から境線で導入し、和歌山線・桜井線は2番目です。JRの場合、無人駅にはICカード専用の簡易改札機を置くことが多く、車内に置くのは異例です。