minori's theater ~CRAZY MANSION!!~ in 大阪・OBP

もうひとつの座長公演で、笑おう。

みのりんが以前から熱望していた“座長公演”という名の朗読劇。そんな夢が、今年実現しました。

声優仲間を引き連れて、東名阪で笑いの渦を起こしました。

今まで、みのりんのイベントは「歌手としてのみのりん」に注目して参加していたのですが、今回は初めて、「声優としてのみのりん」に注目して参加しました。

出演パターン

茅原 阿澄 高垣 日笠 山岡
3/10 名古屋
3/11 大阪
3/17 東京
3/18 東京 夜のみ
3/31 名古屋
4/1 大阪

アスミスは日曜日の昼下がりにレギュラーのラジオ番組があるため、日曜日は東京では夜のみ出られますが、大阪では出られません…と思ったら、千秋楽の夜の部で、ラジオの生放送を終えて東京から駆けつけてきました。昼はあやひーのエイプリルフールネタでしたが、夜は本当にやってきました。

大阪ではまた別の場所(なんばグランド花月の地下)でやっていたのですが、実はあやひーも好きなので、こちらは不参加であやひーが出るほうを選びました。

今日も元気にネタ満載

この朗読劇は、半分ぐらいアドリブで成り立っていますが、奈々さんの座長公演と同様、ネタ満載です。
しかし、アニメネタに偏っている奈々さんの座長公演とは異なり、みのりんの朗読劇ではアニメのみならず、お笑い芸人や政治家など、ネタが幅広くなっています。

たとえば、夜の部で車で移動するシーンでは、ひよっちが「何乗ってるの?」と言って、ゆりゆりに「トヨタ」と返され、「とよた」つながりで豊田真由子の「このハゲー!」を叫んでいました。さらに「違うだろー!」も叫んでいました。ひよっちはこれに加えて「日産にしろと言っただろ!」を付け加えていました(^^;
ちなみに、昼と夜で席が左右逆になっており、昼は輸入車ジャガー)を運転しているという設定になっていました。しかし、ジャガーは英国車なのに、なぜ左ハンドルなんでしょうね?

このほか、あやひーの最初の語りがどう聞いても『みなみけ』だったほか、佐村河内守、野々村竜太郎などスキャンダルのあった人物をネタにしていました。みのりん自身も「週刊文春」に撮られたことをネタにしていました。

あやひーの顔芸が炸裂

あやひーといえば、「スフィアクラブ」のころから顔芸で広く知られていますが、ここでもやっぱり顔芸が炸裂しました。

さらに、もともとダジャレばかり言うことも相まって、芸人気質のひよっちと合わせて「あやひーとひよっちは、NSCの何期生やろ?」と思いました。
実はひよっちも顔芸で知られていますが、あやひーほどではありません。

茅原実里 大いに唄う

夜の部では、なんとみのりんがアドリブで演歌を歌うという荒業に出ました。演歌といえば奈々さんですが、「みのりんも演歌いけるんやな」と思いました。
なお、歌詞はみのりんの知らないところで仕込んでいたのですが、メロディは全くの即興です。

千秋楽の夜公演のみ、「茅原実里 大いに唄う」というサブタイトルをつけてもいいぐらいでした。

スルッとKANSAI完全終了のお知らせ

阪急、阪神、能勢、北急におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売:JR西日本

ニュースリリース|阪神電気鉄道株式会社

http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5840.pdf

1996年に始まった、全国初の乗車カードの広域ネットワーク「スルッとKANSAI」ですが、全国的に進んでいるICカード化に伴い、昨年3月末をもって発売を終了し、2018年1月末までは自動改札機で共通利用することができました。現在はそれぞれのカードの発行元で払い戻しを受け付けているほか、一部事業者(近鉄など)では自動券売機・精算機で使用することができるようです。

スルッとKANSAIでも独自のICカードとして「PiTaPa」を発行していますが、ICOCAなどとは異なり「ポストペイ(後払い)」というクレジットカードとなんら変わらないシステムを採用しています。ゆえに、発行時は一般的なクレジットカードと同じように審査が必要であることから、非常に手続きが面倒なため*1ICOCAなどと比べると非常に発行枚数が少なくなっています。
各社ともポストペイならではの割引制度を充実させているのですが、定期券と比べると割引率が低く、また一部を除き定期券をIC化できないため、定期券のユーザーを取りこぼしてしまっています。

そのため、スルッとKANSAI加盟各社で独自のプリペイド式(ICOCAなどと同じ方式)のICカードを導入するという報道もありましたが、現実的なところで、JR西日本と提携してICOCAの取り扱いを開始し、そちらに移行するというようになりました。2011年の京阪電車、2012年の近鉄を皮切りに、2017年春には阪急阪神東宝グループではない事業者は一通り取り扱いを始めています。
また、JR西日本と私鉄・地下鉄の連絡定期券も、JR西日本での発行分はICOCAに対応し始めており、こちらは阪急・阪神でも対応しています。先行して導入した京阪・近鉄などでは、JR西日本が関係しない連絡定期券や、自社線内のみの定期券もICOCAで発売しており、近鉄に至ってはJR東海TOICA)や名鉄manaca)との連絡定期券も出しています。

話を定期券ではないICカードに戻すと、阪急阪神東宝グループのうち、神戸電鉄北神急行電鉄を除く4社(阪急電鉄能勢電鉄阪神電気鉄道北大阪急行電鉄)ではICOCAは取り扱わず、スルッとKANSAIカードの発売終了後もこの4社独自のカードとして「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していました。すでに発売済みのカードは、この4社に限り2018年2月以降も引き続き使用できます。

ところが、今日になってこの4社でもICOCAを発売すると突然発表されました。すでにJR西日本発行分の連絡定期券はICOCAで出されていますが、自社線内のみの定期券や、単なる乗車券タイプのものも取り扱われます。
これに伴い、“レールウェイカード”は来年春に発売を終了し、秋には自動改札機での利用を終了します。

関西でも、ついに磁気カードの時代が終わりを告げることになりました。残るは各社の専用タイプだけです。

阪急以外とは接続していない能勢電鉄はともかく、“レールウェイカード”エリア内の各社は非対応の路線(ICOCA取り扱い各社)に乗り入れているということもあり(阪急⇔Osaka Metro阪神⇔山陽・近鉄、北急⇔Osaka Metro)、うっかり乗り越してしまい、面倒なことになったとクレームが多かったのではないかと推測できます。また、JR西日本でもPiTaPaの割引制度を導入することが先に発表されており、そのバーターともとれます。
そもそも、阪急阪神東宝グループの内部でも乗車カードに対する態度に温度差があり、神戸電鉄北神急行電鉄は真っ先にICOCAに切り替えたほか、電子マネーにしても、阪神駅ナカにはICOCAで支払いができる店があります。

スルッとKANSAIのあゆみ

スルッとKANSAI以前に、関西圏の私鉄ではJRでいうところの「オレンジカード」のような、乗車前に切符に引き換えて使うプリペイドカードが発行されていました。近鉄の「パールカード」*2大阪市営地下鉄の「タウンカード」、阪神電車の「ハープカード」などがありましたが、阪急の「ラガールカード」も、1989年の登場当時は券売機と精算機のみで使えるオレンジカード的なものでした。これは、自動改札機のシステム改修が間に合わなかったためで、自動改札機で使えるようになったのは1992年と、JR東日本営団地下鉄(両社とも1991年に開始)に先を越されました。それでも、日本の私鉄では初めてのストアードフェアシステムでした。JR東日本イオカード)や営団地下鉄(NSメトロカード)では当初一部路線でしか使用できなかったため、自社の全線で使えるものは阪急が初めてでした。

1994年には能勢電鉄でも「パストラルカード」を発売し、全く同じシステムを導入して共通利用できるようになりました。2社以上でのカードの共通化はこれが初めてです。ここで実績を積み上げ、1996年には阪神電車大阪市営地下鉄北大阪急行も自動改札機の更新と同時に参加して「スルッとKANSAI」に発展しました。

年表(磁気カード)

※電車のみ

在阪の大手私鉄のうち、近鉄は2001年とかなり後になって導入していますが、これは近鉄と阪急の関係が悪く、阪急主導のシステムを導入することを渋っていたためとされています。近鉄はどちらかというと親JRであり、同時期にはJスルーカードも導入しています。のちのICカードも、在阪大手私鉄では最後発であり、2012年以降はICOCAをメインに据えています。

年表(ICカード

カードの名称

*1:ただし、既に持っているクレジットカードに追加できる場合もある

*2:同じ「パールカード」を名乗るカードでも、「パールカード11」はカードタイプの回数券であり、オレンジカードのようなものではない

*3:近鉄では、KIPSポイントカードと一体化した「KIPS ICOCA」も発売開始

*4:スルッとKANSAI非対応の「Kカード」もあったため、「スルッとKANSAI」を冠している

*5:スルッとKANSAI非対応の「トラフィカ京カード」と合わせると「京都」になる

2018年3月ダイヤ改正に寄せて

今年のJRグループダイヤ改正は、さる3月17日に実施されました。その中でも、JR西日本ダイヤ改正の中から気になった点をピックアップして紹介します。

JR総持寺駅

かつて、阪急総持寺駅の近くにはエレベーター・エスカレーターの「フジテック」の本社がありましたが、2006年に彦根に移転しました。余談ながら、新本社のそばには近江鉄道の新駅「フジテック前」が開業しています。なお旧本社もアフターサービスや遠隔監視の拠点として一部が残されています。

その後、この近辺に高層マンションを建てる計画が浮上したことから、2011年になってJR西日本茨木市デベロッパーとの間で新駅設置に関する協定が結ばれました。また、近くには阪急総持寺駅があることから、そこの客をむしり取ろうというJR西日本の戦略もあります。

工事が進捗した2017年になって、茨木市が新駅の駅名を一般公募しました。その結果、トップは「安威川」でしたが、阪急相川駅と間違えやすいのか、理由はわかりませんが「JR総持寺」に決定しました。
また、2019年には東芝の工場の跡地に追手門学院が一部(中学・高校は全面的に)移転してくるため、駅名に「追手門」を入れてほしいという要望もあったようですが、実現しませんでした。

さて、ここで気になるのは、正式駅名が「JR」付きのまま決定してしまったということです。私鉄では、他社の同名の駅と区別するため社名を冠することはよく見られますが、JRグループではJR西日本独特のものです。しかし、これまで「JR」が付く駅はどちらかというと南近畿エリアに多く、東海道本線では避けられているという傾向がありました。近年東海道本線で開業した新駅では、「JR夙川」と「JR桂」が計画段階の仮称として使われていましたが*1、JR夙川駅は「さくら夙川」、JR桂駅は「桂川」と正式決定しました。また、摩耶駅島本駅は近所に他社の同名駅がないため、計画段階でも「JR」付きの駅名にはなりませんでした。

駅名 路線 開業(改称)年 備考
1 JR難波 大和路線 1994年 「JR」付きの駅名第1号
旧・湊町
2 JR三山木 学研都市線 1997年 旧・上田辺
3 JR藤森 奈良線 1997年 新設駅では初めて
4 JR小倉 奈良線 2001年  
5 JR五位堂 和歌山線 2004年 五位堂信号場を駅に格上げ
6 JR河内永和
JR俊徳道
JR長瀬
おおさか東線 2008年 3駅同時開業
7 JR総持寺 JR京都線 2018年 東海道本線では初

国鉄時代は、並行する私鉄と駅名が被る場合、私鉄の駅名を改称させていた*2のですが、JR西日本は先にできた私鉄の駅に配慮しているのか、「JR」を冠した駅名が多くみられます。国鉄としてのプライドを捨てたとも取れます。

なお、私鉄と駅名が被る場合に「JR」を付けるようになったのは1994年(湊町→JR難波)以降で、それ以前に開業・改称した駅では駅名が被ろうがお構いなしでした。
1992年に開業した六地蔵駅は、すでに京阪電車六地蔵駅があったのですが、「JR六地蔵」とはならず単に「六地蔵」となりました。
ただし、りんくうタウン駅関西空港駅は、湊町駅を「JR難波」に改称したのと同時に開業しましたが、南海電車との共用区間にあるためか「JR」は付いていません。

225系 in 羽衣線

阪和線の普通・区間快速・快速電車は、もともと223系・225系しか使ったことのない関空快速紀州路快速を除いては、103系205系が広く使われていましたが、2016年になって225系が追加投入され、6両編成まで登場しました。6両編成があるということは、本気で103系205系を置き換えるつもりであり、実際に2017年になって羽衣線用のものをのぞき全廃されました。このうち、205系1000番台は奈良電車区に転属し、このダイヤ改正から奈良線での運行を開始しました。

このダイヤ改正を前にして、鳳駅の羽衣線ホームと東羽衣駅のホームが4両編成に対応するため延長されていました。そして、225系が投入されています。

103系時代はワンマン運転に対応した専用編成が用意されていましたが、225系に代わってからは5100番台の4両編成が使われています。225系はワンマン運転に対応しているのか、と言われますが、羽衣線ではワンマン運転とはいっても車内で運賃の収受を行わない、いわゆる「都市型ワンマン」となっています。自動放送装置は関空快速用としてもともとついているため、特別な改造は必要ありません。

ワンマンカーには「ワンマン」表示をすることが義務付けられています。羽衣線のワンマンカーの場合、313系521系などと同じように種別表示に「ワンマン」が併記されています。

*1:それぞれ、近所に阪急電車の同名駅があるため

*2:例:JR魚住駅山陽魚住駅。昔は山陽電車にしか駅がなく、山陽電車のほうが単に「魚住」だったが、国鉄の「魚住駅」が開設されると山陽電車のほうが「電鉄魚住」に改称させられた

東京の鉄道小ネタ集・城東地区編

今回は、未開拓だった総武線方面のネタを拾ってきました。

古(いにしえ)のターミナル・両国

現在の総武本線は、各駅停車が御茶ノ水経由で中央線の三鷹まで、快速が錦糸町から隅田川の下をもぐって東京駅まで行き、そこから先は東海道線横須賀線に乗り入れて久里浜まで走っているため、東京都内のターミナルが通過型になっています。

総武本線は、もともと「総武鉄道」という私鉄が建設した路線で、東京と千葉を結ぶ初めての鉄道でしたが、開通は千葉県側が早く、1894年に市川~佐倉が開業しました。西側はすぐに本所(錦糸町)まで延伸されましたが、それ以降は1897年に銚子まで延伸され、千葉県側は完成しました。成田線の一部区間が同時期に開業しています。

西側への延伸は遅れ、1899年に本所~秋葉原までの事業免許を取得した後、1904年に両国橋(当時の駅名)まで延伸されましたが、隅田川を渡るのは資金面などの問題があって後回しになりました。すでに両国橋~本所界隈は市街化しており、高架線で建設することを条件に免許を取得していました。高架線だと建設費がかかるため、何とか地上線にできないかと考えていたようですが、結局は高架線を建設することになりました。この区間は、日本で初めての高架鉄道となっています。
なお、両国橋というのは駅の西側にある隅田川に架かる橋の名前ですが、これはかつて隅田川武蔵国下総国の国境で、国境をまたぐ橋であったことから名づけられました。

長らく総武鉄道(国有化後は総武本線)の東京側の始発駅が両国橋駅であったことにより、千葉方面へのターミナルは両国という時代が長かったのですが、関東大震災の後の復興事業で区画整理が行われ、都心へ乗り入れる線路の用地が確保できるようになり、1932年に現在は緩行線の一部となっている両国~御茶ノ水が開業しました。この区間総武本線で初めて電化された区間で、中央線に乗り入れて中野~両国にシャトル電車が運行されていました。このシャトル電車は現在の中央・総武線各駅停車であり、この電車が発着していたホームが現在の1・2番線です。
両国より東はまだ電化されていなかったため、千葉方面へは両国で乗り換える必要があり、千葉方面への列車は列車ホーム(かつての3~6番線)から発車していました。のちに千葉まで電化されると、総武本線の列車は中野~御茶ノ水~千葉を直通する電車と、千葉より先のSL・気動車列車がメインとなり、両国駅の列車ホームを使う列車は激減しました。

戦後になると房総方面への急行・準急が大増発され、再び列車ホームに賑わいが戻ってきました。一部は緩行線経由で新宿まで行くものもありましたが、両国発着がメインでした。夏になると両国駅の列車ホームは海水浴客でにぎわっていました。この当時の房総地区の在来線は、海水浴客が多数利用するのに合わせて夏場だけダイヤを大幅に組み替えていました。

1972年、「通勤5方面作戦」の一環として総武本線津田沼まで複々線化されましたが、その際に都心側では錦糸町から隅田川の下を抜けて東京駅*1に至る新ルートが建設されました。地下への入り口が、両国駅の北側(国技館と3番線の間)にあり、ホームを作ることができないため、両国駅に快速は止められませんでした。この時に房総方面への特急が設定されましたが、新設された地下線経由で東京駅発着とされました。
ただし、当時は地下線の信号保安装置にATCを採用しており、地下線に入ることができる車両は113系1000番台と183系だけでした。この当時は急行も多数残っており、153系や165系が使用されていましたが、これらの車両にはATCが付いていなかったため、両国発着で残されました。しかし、これらの列車も東京駅発着の特急に置き換えられ、1988年3月のダイヤ改正で両国発着の長距離列車は全廃され、それ以降は中央・総武線各駅停車の途中駅のうちの一つとなっています。かつて使われていた列車ホームのうち、3番線のみ残っており、2010年3月のダイヤ改正までは房総方面に夕刊を輸送する「新聞輸送列車」が使っていました。

なお、両国というのは本来は隅田川の両岸、両国橋の周辺地域のことであり、隅田川の西側(中央区、いわゆる日本橋両国)にも「両国」とつく施設(両国郵便局など)がありますが、両国駅隅田川の東側に開業し、さらには国技館(初代は回向院の境内、2代目は両国駅の北側)が開設されて相撲の興行で全国的に知られるようになり、現在では「両国」というともっぱら隅田川の東側(向両国、東両国)を指すようになりました。

通勤5方面作戦~総武線編~

1960年代、ほかの東京近郊の主要路線と同じく、総武線は朝ラッシュ時を中心に激しい混雑となっていました。そのため、国鉄では1964年に「通勤5方面作戦」を策定しました。5方面というのは、東京を中心に放射状に延びていく主要路線が5つあるために名付けられたもので、東海道線横須賀線含む)、中央線、東北線高崎線含む)、常磐線総武線の5つです。

そのうち、総武線では以下のような内容で輸送力の増強が進められました。

これと前後して、緩行線の電車も101系に置き換えられています。
1968年からは複々線化に先だって、中央線の中野発着で千葉方面(成田・木更津)へ向かう快速が設定されました。中央線側では緩行線の各駅に停車し、御茶ノ水からは秋葉原・両国・新小岩・市川・船橋津田沼・千葉以東の各駅に停車していました。現在の快速とは異なり、御茶ノ水まで快速運転を行っていたほか、稲毛と錦糸町を通過していました。

1972年に東京駅へ乗り入れる地下線と、錦糸町津田沼複々線化が完成しましたが、東京駅への直結線のルートは以下の3案がありました。

  1. 江戸通りの地下を通って東京駅に向かう
  2. 神田川沿いに高架線もしくは地下線を敷設し、神田駅の手前で東北本線と並んで東京駅に向かう
  3. 緩行線沿いに線増し、秋葉原の手前で東北本線と並んで東京駅に向かう

2・3案では用地買収コストがかかりすぎることもあり、最終的には江戸通りの下を通るルートで決定しました。このトンネルは、東京駅を境に総武線側は「総武トンネル」、横須賀線側は「東京トンネル」と呼ばれています。
地下への入り口は、両国駅の貨物取扱設備と6番線の跡地に設けられましたが、この辺りは33.4/1000の急こう配やカーブがあるため、両国駅の快速ホームは設置されませんでした。そのため、東京駅から両国へのアクセスは相変わらず不便で、秋葉原総武緩行線に乗り換えるか、快速で錦糸町まで行ってバックするしかありません。あのとき、もう少し東側から潜って両国駅の地下に快速ホームを作っておけばよかったと思います。隅田川にもう1本橋を架けるとなると、現行の配線では緩行線をまたぐ高々架になってしまい、どこかで潜ろうとするとさらにきつい勾配ができてしまうほか、だからと言って両国駅自体を清澄通りの東側に移転すると今度は国技館から遠くなってしまいます。

ともあれ、津田沼までの複々線化が完成し、1981年には千葉まで複々線化されて現在に至ります。その間、1976年にはすでに品川まで掘っていたトンネルを活用して、東京駅の混雑を緩和するためラッシュ時の快速電車が品川まで乗り入れるようになりました。

隅田川の下を通るトンネルは、地上で作っておいた箱(ケーソン)を川の底に沈め、水中でつなぐ「ケーソン工法」で建設されました。

前述のとおり、トンネル内の信号保安装置は、地下で見通しが悪いことから車内信号式ATC国鉄在来線では初)が採用されました。車両そのものも、長いトンネルを走ることから火災対策に最も力を入れ、運輸省通達「電車の火災事故対策について」の「A-A基準」に即して製造されました。そのため、かつては総武快速線を走れる車両が113系1000番台と183系に限定されていましたが、ATCの老朽化で前後の区間と揃えてATS-Pに更新され、さらに最近の車両は地下を走らない場合でもA-A基準に即して製造されているため、乗り入れられる車輛の制限はなくなりました。

なお、総武本線の起点は1932年以来御茶ノ水でしたが、複々線化と東京駅への乗り入れに合わせて東京駅が起点に変更され、御茶ノ水錦糸町中央本線に接続する支線という扱いになりました。

総武線快速電車の停車駅の変遷

総武線の地下水問題

総武線の地下区間は海に近く、地下水位が非常に高くなっています。特に、昔は地下水を野放図に使い続けた結果あちこちで地盤沈下が発生したこともあり、東京都の条例で地下水のくみ上げが禁止されています。そのせいで、今度は逆に地下水位が上がってしまい、東京駅の総武線ホームが地下5階にあるのに対して、地下水は地下3階相当まで上がっています。トンネルなどの構造物を上から建物で押さえつけているのであればまだよいのですが、東京駅の総武線ホームは丸の内側のロータリーの下で、上に建物はありません。そのため、現在の東京駅総武線ホームは地下水の中に浮いているという状態です。

地下水による被害の例としては、1991年に武蔵野線新小平駅の水没事故がありましたが、これは東西方向の地下水の流れを、南北に走る武蔵野線がせき止めてしまい、水がたまって一気に地下水位が上昇し、大きな浮力がホームにかかり、その浮力でホームが壊れて地下水が噴出したというものです。新小平駅での事故後、JR東日本で同じように地下水の浮力で壊れる恐れがある駅がないか調査したところ、東京駅の総武線ホームと、上野駅の新幹線ホームが地下水の中に浮いており、このまま放置すると浮力でつぶされる恐れがあったため、両駅ともに固い地層までアンカーを打ち込み、重りを置いて浮き上がらないようにしました。
その後、地下水をポンプで排水して水位を低く保つようにする傍ら、立会川・不忍池に流して水質の改善に役立てるという試みもなされています。しかし、そのポンプが泥水を吸い込んで排水できなくなり、トンネル内に水を溢れさせてしまい、総武線横須賀線が半日止まってしまったということがありました。

また、地下水が原因でトンネル内の各種部品やボルトがさび付いてしまい、壁がはがれてしまう恐れもあったほか、初代「成田エクスプレス253系は地下水が原因で老朽化が早く進行し、20年たたないうちにE259系に置き換えられたとまで言われています。

東京都内なのに?

東京都内のJR東日本の各線を管轄しているのは、当然東京支社…というわけではありません。JRの支社の区分けは、おおむね国鉄時代の鉄道管理局のエリアと一致します。東京支社のエリアは、かつての東京3局(南・西・北)に当たり、総武線は東京南局のエリアに当たります。

ところが、隅田川から東側は下総国であり、そのせいかどうかわかりませんが総武線の両国以東は千葉局のエリア内でした。複々線化後は、緩行線は浅草橋と両国の間に、快速線は総武トンネルの出入り口に東京南局と千葉局の境界がありました。これが民営化後も踏襲され、東京支社と千葉支社の境界は両国・錦糸町の西側に置かれており、両駅構内は千葉支社の管轄になっています。

そのため、両国~新小岩は東京都内なのに千葉支社の管轄下にあるという状態になっています。のちに開通した京葉線も、東京駅へ至る地下線は東京支社、地上に出ると千葉支社の管轄です。ただし、総武線の指令は千葉まで東京支社の担当で、逆に京葉線の指令は東京駅まで千葉支社の担当です。

浅草~北千住のルート

東武伊勢崎線は、浅草駅を出るとすぐ東へカーブして隅田川を渡りますが、これはもともと都心側の起点が北千住だったことによるもので、さらに奥まで延伸するのに、ルート選定が難航を極めたためです。
吾妻橋(→浅草(初代)→業平橋とうきょうスカイツリー)まではすぐに開通できましたが、この時は隅田川を渡るのを避けたため、北千住を出ると東へカーブして荒川と隅田川の間を縫って走るようなルートで吾妻橋まで至りました。その後も、当時の東京最大の繁華街だった浅草までの乗り入れを目指して京成電鉄と争っていましたが、京成が汚職事件を起こしたことから、浅草乗り入れの認可は東武に与えられ、1931年にようやく現・浅草駅への乗り入れを果たしました。その後、京成は上野へ乗り入れを果たし、浅草乗り入れも都営浅草線経由で実現させています。
戦後は浅草の地位が相対的に低下し、東武としても都心乗り入れ、山手線との接続を果たすため、新橋や東京駅への地下線の免許を申請し続けていましたが、すべて却下されました。山手線との接続は北千住から日比谷線に乗り入れることで果たされました。待望の都心直通ルートを手に入れ、利便性が向上したため、浅草~北千住の乗客が減少したのを補って余りあるほどの効果を得ました。

北千住から浅草まで行こうと思えば、まっすぐ南下して南千住経由で行けるのではないかと思うでしょうが、一気に浅草まで乗り入れたわけではなく、都心側のターミナル駅の確保に苦労させられ、さらに隅田川を渡ることを避けたため、あのような形になってしまっています。北千住からまっすぐ業平橋まで行こうと思えば、隅田川を最低2回渡る必要があります。

地下鉄なのに竜巻で?

東京メトロ東西線といえば、南砂町西船橋の14kmにわたる地上区間です。これは、浦安や市川周辺は埋立地で地盤が弱く地下にトンネルを掘ることが難しかったことや、地上に作ったほうが建設費が大幅に安くなること、さらに昔は周りに何もなく地価が安かったため*3、用地確保もしやすかったという事情があります。何もなかったところに線路を敷いたため線形は非常によく、この区間では快速が東京メトロ最速の100km/hで走行しています。

南砂町を出て地上に上がると、地下鉄なのに1200mもある鉄橋があります。「荒川中川橋梁」で、荒川と中川の合流地点よりわずかに上流にかけられています。

この荒川中川橋梁で、1978年に竜巻で吹き飛ばされて10両編成のうち2両が脱線・転覆するという事故がありました。その当時、テレビのニュース速報で「地下鉄電車が突風で転覆」と出ており、知らない人は「なぜに地下鉄の電車が突風で転覆するかな?」と思ったとのことです。

実際に乗ってみると、あの辺りは海の近くで、風を遮るものがほとんどないため、突風が吹くと近年の軽い電車ではよく揺れるのではないかと思いました。ただ、あの事故の原因は竜巻であり、セミステンレス・オールステンレス・アルミ・普通鋼のどの車体であっても、竜巻にやられたら一発アウトです。のちに羽越本線485系が竜巻で飛ばされ、死者が出るという事故も発生しました。

なお、脱線した2両は現場がトラス橋の上のために搬出が難しかったことから、現地で解体され、同じ番号で改めて作り直されています。

*1:総武線から東京駅へ向かう乗客が多く、秋葉原駅はパンク状態だった

*2:その後、品川まで延伸し横須賀線に乗り入れ。いわゆる“SM分離”も5方面作戦の一環である

*3:この「地価が安い」と「都心直結」という点から住宅地として脚光を浴び、のちに著しい混雑に悩まされることになる

あんなに一緒だったのに

 アニメソング界で絶大な人気を誇る女性3人組ボーカルユニット「Kalafina(カラフィナ)」が、今春にも3人体制での活動に終止符を打つことが12日、スポーツ報知の取材で分かった。同じ所属事務所の音楽プロデューサーで、08年のデビュー以来、全楽曲を手掛けてきた梶浦由記氏が先月20日に退社したことを巡って、メンバー間に亀裂が生じたとみられる。

 昨年12月に一部で梶浦氏の退社が報じられて以降、事務所に残留するか退社するかで、メンバーに動揺が広がっていた。全幅の信頼を寄せてきた梶浦氏を欠き、これまで通りの楽曲制作は不可能に。梶浦氏不在のままのユニット存続に疑念を抱くメンバーが今月末での脱退を決め、分裂することになった。

 関係者によると、今後の3人でのCDリリース、ライブの予定は白紙の状態。また、10年からレギュラー出演するbayfmKalafina倶楽部」(火曜・深夜0時)が今月で終了する。今後、残留メンバーだけでユニットを存続させ、他アーティストとの共演などを模索していくという。

 高音のWakana、低音のKeiko、中音のHikaruが織りなす独特のハーモニーが魅力のKalafina。09年からNHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌を歌うほか、数々のアニメでテーマ曲を担当して人気に。今年1月23日に日本武道館でデビュー10周年ライブを行い、新たなスタートを切ったばかりだった。

 11日に都内で出演した音楽イベントが3人で行う最後のライブになった。普段と変わらぬ抜群のハーモニーを聴かせた一方、最後に感極まって涙を流すメンバーもいた。3人は30日に都内でドキュメント映画の初日舞台あいさつに立つ予定で、発言が注目される。


 ◆Kalafina(カラフィナ) Wakana、Keiko、Hikaru(いずれも年齢非公表)の3人組ボーカルユニット。2008年1月、劇場版アニメ「空の境界」の主題歌「oblivious」でデビュー。NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌「storia」、人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」のテーマ曲「magia」などを担当。中国、台湾などで単独公演を行い、北米や欧州で多数の音楽イベントに出演し、海外でも高い人気を誇る。

(「スポーツ報知」2018年3月13日)

先日の「Songful Days」で初めて耳にして、その美しすぎるハーモニーにすっかり魅了されたのですが、残念ながら3人そろった姿を見るのはこれが最初で最後になりそうです。

昨年末に、梶浦さんが事務所を退社するというニュースが飛び込んできて、梶浦さんのおかげで成り立っていたKalafinaにも影響が出ることは避けられないという風になりました。実際、1月の10周年記念武道館公演以降はスケジュールが白紙(のちにSongful Daysに出演決定)になっていました。
その時のスポニチの記事がこちらです。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態。20億円以上を稼ぎ出すとみられる2組が「離脱」と「活動休止」となれば事務所にも甚大な影響を及ぼすことになる。

 年末にかけてローラ(27)や西内まりや(23)ら有名タレントと所属事務所とのトラブルが相次ぐ中、芸能界が新たな収益先として注目するアニメ界を揺るがす独立劇が起きた。

 梶浦氏は「魔法少女まどか☆マギカ」などの人気アニメを中心に活躍する劇伴奏の第一人者。NHK朝の連続テレビ小説花子とアン」などの音楽も担当しており、ここ数年で手掛けたCDの総売り上げは200万枚を超える。複数の関係者によると、来年2月に退社し、今後はフリーで活動するとみられる。楽曲に関する権利については弁護士を通じて事務所側と話し合いを続けているという。

 音楽関係者によると、昨年9月に開催したカラフィナの武道館公演までは梶浦氏を育てた音楽プロデューサーA氏が現場を担当していたが、女性幹部に交代。音楽の方向性の違いなどで、梶浦氏と女性幹部の間でトラブルになっていたという。今年6月にA氏が事務所を退社したこともあり、音楽スタッフの1人は「梶浦さんは女性幹部との折り合いがよくなかった上に、芸能界に引っ張ってくれた恩人がいなくなったことで退社を決意したようです」と話した。

 梶浦氏がプロデュースし、NHK歴史秘話ヒストリア」の主題歌などを歌うカラフィナも来年1月23日の結成10周年を記念した日本武道館公演以降のスケジュールがほとんど白紙状態となっている。来春の映画公開や楽曲のリリース予定はあるものの、梶浦氏が離れることから活動休止も検討しているという。事務所側はスポニチ本紙の取材に「そんな事実はありません。ただ3月以降の契約については把握していません」と説明した。

 音楽関係者は「カラフィナで年間の売り上げは10億円は下らない。梶浦さんも実は隠れ長者。劇伴奏が多いのでカラフィナ以上に稼いでいる。あとは権利に関しての契約がどうなるか」と指摘した。神田うの(42)、栗山千明(33)らが所属する老舗事務所にとっても大幅な売り上げダウンとなれば、経営の根幹を揺るがしかねない可能性がある。


 ◆梶浦 由記(かじうら・ゆき)年齢非公表。1993年にユニット「See-Saw」のキーボードとしてデビュー。ユニットの活動休止以降は作詞・作曲を中心に活動し、ソロプロジェクト「Fiction Junction」として、ボーカリストを招いて楽曲をリリース。テレビアニメ「ソードアート・オンライン」、NHK連続テレビ小説花子とアン」など、多くの作品でサウンドトラックを手掛けた。

 アニメ界でカリスマ的人気を誇る音楽コンポーザーの梶浦由記氏=年齢非公表=が来年2月に芸能事務所「スペースクラフト」を退社することが22日分かった。女性幹部との確執などが原因とみられる。梶浦氏がプロデュースした音楽ユニット「Kalafina(カラフィナ)」も来年1月の公演以降のスケジュールがほぼ白紙状態となっている。

 カラフィナはこの日、都内でクリスマスライブを開催し、3月30日に初のドキュメンタリー映画を公開することを発表した。メンバーのKeiko(年齢非公表)は「私たちが歌ってきた音楽が見えるものになっている」と自信。Hikaru(年齢非公表)は「可能な限り音楽を通じてファンの皆さんと会話をしたいなと思います」と話していた。


 ◆Kalafina 08年にアニメ映画「空の境界(からのきょうかい)」の主題歌「obluvious」でデビュー。高音をWakana、中音をHikaru、低音をKeikoと、異なる音域を担当する3人によるハーモニーが特徴。アニメソングを中心に活動し、代表曲に「魔法少女まどか☆マギカ」エンディングテーマの「Magia」、「アルスラーン戦記」エンディングテーマの「One Light」など。

(「スポーツニッポン」2017年12月23日)

この時は、梶浦さんの独立騒動にKalafinaも巻き込まれるのではないかと言われていたのですが、事務所・本人からは何もコメントがありませんでした。緘口令が敷かれているのか、それとも本当に何も知らないのか、外部の人間は何もわかりません。

そんな中で、1月23日に武道館公演が開催され、成功裏に終わりました。そして2月になって、梶浦さんから退社の報告がありました。

 アニメや映画のサウンドトラックなどを手掛ける音楽プロデューサー・梶浦由記氏が21日、所属事務所「スペースクラフト」を退社したことを自身のツイッターで報告した。関係者によると、20日付で退社した。

 梶浦氏は「わたくしこの度所属事務所より独立させて頂くこととなりました」と報告。「思えばスペースクラフトプロデュースさんには長らくお世話になりました……20年以上ですから。今は有難くも心躍るようなお仕事に多々携わらせて頂いておりますが、そうでない時期もございました。その間も支え続けて下さった事も含めて感謝の言葉しかありません」とした。

 今後については「長期間に渡って色々な事を学ばせて頂きましたが、ここらでそろそろ自分で頑張ってみようかなと。今後も勿論音楽のお仕事は続けて参りたいと思っております」と記した。

 女性3人組ボーカルユニット・Kalafina、歌手・春奈るな(26)らに楽曲を提供している梶浦氏。「今までお世話になった同事務所の歌い手さんたちや、Kalafinaについては……いる場所が変わってしまいますので今まで通りと言うわけには参りませんでしょうが、今後も微力ながら応援して参りたい気持ちに変わりはございません♪」とつづった。

 梶浦氏は、1993年に女性2人組ユニット「See-Saw」としてメジャーデビュー。人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」などアニメ音楽を数多く手掛けるカリスマ的存在で、14年にはNHK連続テレビ小説花子とアン」の音楽を担当した。

(「スポーツ報知」2018年2月21日)

さて、この中にある「いる場所が変わってしまいますので」というくだりをどのように受け取ればいいのでしょうか。もし、梶浦さんがKalafinaのプロデュースから離れるという意味だとすれば、それはユニット自体の存続の危機ということを意味します。その後、メンバー間で今後の活動に関して軋轢があったようで、「梶浦さん抜きでやっていけない」といったのが誰かはわかりませんが、今月いっぱいで脱退し、残ったメンバーだけでやっていくことも検討しているようです。

しかし、古くからのファンからは「3人そろっていなければKalafinaではない」「あのハーモニーを生み出せるのは梶浦さんがいてこそ」という声も聞かれます。となると、活動休止、最悪の場合解散も避けられないような気がします。

これは深読みしすぎだと思いますが、Songful Daysのラストでみのりんがポツリとつぶやいた「…終わっちゃった」も、また別の意味にとれるでしょう。「3人そろったKalafinaと共演するのは、これが最後ではないか」と、みのりんも薄々感づいていたのではないかと思います。特に、みのりん自身も2度にわたる独立騒動があっただけに、他人事とは思っていないような気がします。

この騒動は、2016年のSMAP解散騒動を思わせます。構図が全く同じです。