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日比谷線直通をやめる理由

鉄道

あと4日後に迫った東急電鉄ダイヤ改正では、1964年以来続いていた東横線と日比谷線との相互直通運転が取りやめられます。

日比谷線とは?

日比谷線は、1962年に示された「都市交通審議会答申第6号」では「東京2号線」と呼ばれており、ルートは中目黒〜六本木・霞ヶ関・築地・茅場町・上野・三ノ輪〜北千住であり、1972年の第15号答申では北千住から松原団地まで延伸され、北千住以北は東武伊勢崎線複々線化すると定められました。

その際、中目黒から東横線に、北千住から伊勢崎線に乗り入れることとされました。しかし、乗り入れ協議にあたって、ここで取り決められた内容がのちに禍根を残すことになります。

番号 路線名
1号線 浅草線
2号線 日比谷線
3号線 銀座線
4号線 丸ノ内線
5号線 東西線
6号線 三田線
7号線 南北線
8号線 有楽町線
9号線 千代田線
10号線 新宿線
11号線 半蔵門線
12号線 大江戸線
13号線 副都心線

なお、路線の番号は計画された順番であって、必ずしも建設された順番ではありません。

重大なミス

需要予測を行った際、東横線からは乗客が多いため8両編成で、伊勢崎線からは乗客が少ないため6両編成で乗り入れるという話が出てきましたが、いざ開業して伊勢崎線から乗り入れてくると、待望の都心直通ルートであることから6両編成では混雑が激しく、伊勢崎線からも8両編成で乗り入れるように変更されました。後から東横線との相互直通も始まりましたが、こちらはさほど需要喚起にはならなかったようです。自社のターミナルが浅草か渋谷かの違いもあるようです。

後々までネックとなったのは、18m級の車両を使用していることです。計画段階では、東武側から20m級車両で乗り入れたいという希望を出していましたが、急カーブが設定できるという理由で18m級車両が選ばれました。これは、当時は地下鉄の建設方法は開削工法が主流だったためで、基本的には道路の下を通すルートが設定され、交差点で曲がる際に急カーブができてしまいます。

当時、東急では18m級車両が主力であり、初代7000系が乗り入れ車両として投入されました。東武ではすでに20m級車両を主力としており、日比谷線に乗り入れるためだけにわざわざ18m級車両を用意せざるを得なくなってしまいました。

のちに、東急も20m級車両を主力にするようになり、東武と同じように日比谷線に乗り入れるためだけにわざわざ18m級車両を用意せざるを得なくなりました。しかし、東急の場合は池上線・東急多摩川線にて18m級車両が必要になるため、こちらと共用できます。

車両が短いということはその分混雑がひどいということになるため、両方とも優等列車は乗り入れさせず各駅停車を乗り入れさせています。伊勢崎線の北千住以北(北越谷・東武動物公園行き)の各駅停車は日比谷線直通なので、また別に浅草〜北千住の各駅停車が運行されています。

ただし、かつては5000系の試運転(新造後・検査明け)を日比谷線で行っていたことがあり、一部区間では20m車が走れるようになっています。

新たな都心直通ルート

車両が短いことによる混雑に、東急も東武も悩まされています。そこで、両者ともに20m級車両を使える新たな都心直通ルートの検討に乗り出しました。特に、東武では北千住駅が乗り換え客でパンクしてしまったため、ホームを重層化して伊勢崎線と日比谷線の乗客を分離するという対症療法をとったものの、抜本的な対策が必要となっていました。

東急では、東横線複々線化し、目蒲線を多摩川園で分割したうえで目黒方面を20m車が走れるように改良し、南北線三田線相互直通運転を行いました。これは、直接的には東横線自体の混雑を緩和する(渋谷へ向かう乗客の一部を目黒・南北線三田線方面に流す)のが目的ですが、実質的には日比谷線に代わるもう一つの都心直通ルートと言えます。このため、2001年のダイヤ改正で昼間の日比谷線直通電車が毎時4本から毎時2本に削減されました。

東武では、当時押上までの延伸計画のあった半蔵門線に乗り入れる計画を出し、曳舟〜押上に新線を建設し(書類上は曳舟業平橋複々線扱い)2003年に完成し、20m級車両の10両編成で優等列車を乗り入れさせています。

なぜ乗り入れをやめたか?

東横線では、混雑を少しでも緩和するために1960年代後半から車両の大型化・長編成化を進めており、渋谷〜桜木町を走行する電車は全て20m車に置き換えられましたが、日比谷線直通だけは18mのまま残ってしまいました。1980年代後半になると20m車の8両編成でも追いつかなくなり、複々線化して増発するのですが、費用対効果を考えて多摩川園〜日吉のみ複々線化し、多摩川園以北は目蒲線を20m車が走れるように改良し、南北線三田線に乗り入れることにしました。これで、日比谷線に代わるもう一つの都心直通ルートが確立されました。現在は6両編成ですが、将来的には8両編成になります。このため、日比谷線に乗り入れるメリットがなくなり、乗り入れる必要がなくなったということです。

もうひとつは、東横線ではホームドアを全駅に設置するため、20m級の4ドア車に統一しないとまずいというのがあります。

すなわち、東横線の車両を20m級に統一するのは、東急にとっての悲願であると同時に必ず行わないといけないことです。このために選んだ施策とは「日比谷線直通の廃止」でした。

参考:三田線のルート変遷

実質的に日比谷線の代わりとなった三田線ですが、全線開通に至るまでには何度もルートが変更されています。

当初の計画では5号線(東西線)の一部で、大手町から分岐して下板橋に至る路線でした。1962年の都市交通審議会答申第6号にて、この分岐線が6号線として切り離され、5号線は営団、6号線は東京都交通局が建設するというのが定められました。この際に示されたルートは「西馬込〜五反田〜田町(三田)〜日比谷〜春日〜巣鴨〜板橋本町〜上板橋・志村(高島平)」で、標準軌を採用し西馬込泉岳寺と馬込検車場を1号線(浅草線)と共用する予定でした。

しかし、1964年の答申では板橋本町〜上板橋が削除され、代わりに志村〜和光市が付け加えられ、西馬込泉岳寺は1号線の分岐線として計画が変更されています。この時点では、和光市から東武東上線に乗り入れることになり、1067mmに変更され、車庫が新たに必要になったため、高島平に志村検車場を新設することになりました。また、泉岳寺以南は「東急泉岳寺線」として池上線の桐ケ谷(大崎広小路と戸越銀座の間にあった駅で、戦時中に廃止された)まで延伸し、桐ケ谷から先は大井町線田園都市線に乗り入れるという計画でした。後に志村〜和光市東武東上線の支線として建設するように変わっています。

これで車両などの規格がまとまりましたが、1965年には東武東上線は8号線(有楽町線)に乗り入れるように計画が変更され、東急も池上線と三田線の相互直通をやめて田園都市線を11号線(半蔵門線)に乗り入れるように計画を変更してしまい、結局建設されたのは志村(後に高島平へ変更)〜三田だけでした。その後、高島平団地が造成されることになり、東武が免許を持っていた志村〜西高島平を三田線として開通させただけで、これで24年間維持されます。

1968年の都市交通審議会答申第10号では、三田から白金高輪を通って港北ニュータウンへ延伸するというルートが付け加えられました。港北ニュータウンの計画当初は、西馬込から港北ニュータウン経由で中山まで延長する計画が加えられており、公表された計画書には駅の場所まで書いてありました。しかし、1985年の運輸政策審議会答申第7号では目黒までに短縮され、白金高輪〜目黒は7号線(南北線)と共用し、目黒以南は目蒲線目黒線)と相互直通する計画で決定しました。2000年9月26日に三田〜目黒が開通し*1、結果的には東急との相互直通は路線こそ変わっていますが実現しています。

*1:実際は、8月には目蒲線改め目黒線の改良工事が先に完成し、三田線南北線ともレールが繋がっており、9月22日にダイヤ改正が行われ、前日までは三田・溜池山王〜目黒を回送列車として運行していた