近鉄電車の小ネタ集 from 五位堂&高安

昨年「きんてつ鉄道まつり」に初めて行ってきましたが、この時は大阪地区ではスケジュールが合わなかったことや、台風で1日中止になってしまったため、代わりに四日市は塩浜まで足を延ばしました。

そして、今年はようやく、大阪地区での開催分に足を運ぶことができました。

近鉄の工場の配置

昨年と同じようなことを書いていますが、今回は大阪地区(上本町営業局・天王寺営業局→大阪輸送統括部→大阪統括部)と名古屋地区(名古屋営業局→名古屋輸送統括部→名古屋統括部)に分けてまとめなおしました。*1

大阪地区

名古屋地区

太字:特急の折り返し整備を行う箇所

塩浜に工場機能が残っているのは、以前は車両の共通化が現在ほど進んでおらず、名古屋地区の電車には抑速ブレーキがなく青山峠を越えて五位堂まで行けないものが多く存在したため、青山峠を越える必要がないよう塩浜で検査できるようにしたことや、五位堂での検査能力の関係です。

また、特急の折り返し整備については、難波発着は東花園、上本町(地上ホーム)発着は高安、奈良発着は西大寺、名古屋発着は米野で行っているようで、難波に着いてから東花園へ行くアーバンライナーの回送列車を時折見かけます。ただし例外もあり、名古屋駅に到着後、その場で掃除して折り返し便として走ることや、「しまかぜ」の入出庫回送は難波~高安、京都~西大寺、名古屋~富吉を走る、ということもあります。

なお、大阪地区と名古屋地区の境目は新青山トンネルの大阪側の入り口です。

撮影会

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今年の五位堂での撮影会ラインナップは以下の通りです。

21000系と22600系は、もはや説明不要です。近鉄といえば21000系「アーバンライナー」、というイメージが付いていたこともありました。

2013系「つどい」

当初は、伊勢志摩エリアにおける「しまかぜ」と並ぶもう一つの観光列車として企画・運行されていたのですが、2018年に湯の山温泉の開湯1300年記念キャンペーンを行うに当たってリニューアルされました。

初期のカラフルな装いから、「SLばんえつ物語」をほうふつとさせる落ち着いた塗装に変わっています。全体的に、落ち着いた大人の移動空間といった感じです。

8400系

奈良線の昇圧を前にして登場した一般車で、3両以上の編成を組むため、主要機器を長編成に対応した大容量のものに変更しています。

3両編成と4両編成が存在し、3両編成は全編成がワンマン運転に対応しています。かつては京都線の各駅停車で3両編成があったほか、急行も5両編成があったことから、そちらで使用されていたようですが、現在は3両編成単独で田原本線で使われているほか、奈良線では2本つないで6両編成にして使います。

このほど、田原本線の開業100周年を記念して、1970年代まで見られた初代600系の色に塗って7月から走っています。

はかるくん

これまで夜間に低速で行っていた電気・信号関係の検測を、昼間に高速で行えるように、2410系を改造して導入した電気検測車です。

電気・信号関係の測定機器と、測定用のパンタグラフを、大阪寄りの車両(クワ25)に積んでいます。測定機器はこちらに集約しており、南大阪線養老線の検測の際には、この車両だけ狭軌の台車に履き替えて、南大阪線では6200系、養老線では610系に連結して走ります。

五位堂なのに南大阪線

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行先表示を見ればわかりますが、この電車は南大阪線の6400系です。南大阪線初のインバータ制御の電車です。

以前は、南大阪線の電車は古市工場で全般検査・重要部検査をしていたのですが、1982年に高安工場・玉川工場とともに、新設された五位堂検修車庫にその機能を移管して廃止されました。6400系は1986年に登場した電車で、古市工場が廃止されてからの車両であり、登場以来五位堂で全般検査・重要部検査を受けています。
しかし、南大阪線軌間は1067mm、大阪線などの軌間は1435mmで、このままでは五位堂まで行けません。

で、どのようにして五位堂へ連れて行くのかというと、橿原神宮前駅の東の端に台車の交換設備があり、まずはそこまで回送します。ここでモト97・98(電動貨車)が待機しています。
4線区間に入り、車体をジャッキで支え、台車が載っている道床を下げて本来の台車を外します。そして、台車ごと道床をずらして標準軌の仮台車を移動させ、道床を上げて仮台車をはかせます。
電動貨車に本来の台車を積み、前後に連結して橿原線に入り、八木西口から大阪線に入って五位堂まで行きます。

南大阪線に帰るときはその逆の手順を取ります。

今年は、南大阪線の電車であることがわかりやすいよう、表示を「区間急行 大阪阿部野橋」にしていました。

バスにもあるビスタカー

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その昔、2階建ての電車を始めて走らせたのは近鉄でした。1958年に登場した10000系がその始まりで、その翌年に登場した10100系で「近鉄特急といえば2階建て、ビスタカー」というイメージを確立させました。

鉄道でビスタカーが大成功を収めたことから、今度は当時直営だったバス部門でも2階建て車両を導入しようということになり、日野自動車の協力を得て、日野のシャーシに近畿車輛で製造した2階建ての車体を載せて、日本初の2階建てバス「ビスタコーチ」を1960年に登場させました。その後も数台導入しており、1980年代に2階建てバスのブームが到来した際は、日野で唯一の2階建てバス「グランビュー」の第1号車を導入してバス版「ビスタカー」として走らせていました。また、夜行高速バスの輸送力増強用に三菱ふそうエアロキングを使っていたこともありました。

近年では、2階建てバスの屋根を取っ払った「オープントップバス」が各地で走っていますが、近鉄バスでもエアロキングを改造して「OSAKA SKY VISTA」として大阪市内の定期観光バスに投入しました。VISTAという言葉が入っていることで、歴代ビスタカー・ビスタコーチの伝統が受け継がれているのがわかります。

インバータ制御なのに?

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これは、22000系の床下についている抵抗器です。22000系はインバータ制御なのに、なぜ抵抗器が付いているのでしょうか。

答えは「発電ブレーキに使うため」です。インバータ制御の電車は、一部を除いて回生ブレーキが付いているのですが、近鉄大阪線の青山峠の前後などのような本数の少ない山岳区間では、他の電車が電力を消費することが前提となる回生ブレーキでは、ブレーキが効かなくなることがあります。特に、長い連続勾配では速度が上がりすぎないよう電気ブレーキ*2をかけて下るのですが、回生ブレーキが効かなくなってしまうと暴走してしまいます。特に、近鉄ではかつて奈良線でブレーキが故障して電車が暴走し、河内花園駅に止まっていた電車に追突したという事故があったため、ブレーキに関しては特に神経質になっています。なので、インバータ制御で回生ブレーキが使える車両でも*3、確実に効く発電ブレーキを装備しています。

近鉄では伝統的に自然通風式抵抗器を採用していますが、これは強制通風式(国鉄に多かった)だとブロワーが故障した際に熱がこもってしまい、抵抗器が熱ダレして発電ブレーキが効かなくなるためです。現在の発電ブレーキ用抵抗器も、自然通風式を採用しています。

近鉄吹奏楽

近鉄には、有志で結成された吹奏楽部「ミュージックメッセンジャーズ」があり、沿線の各種イベントに出向いて演奏しています。当然といえば当然ですが、五位堂でも毎年演奏しているようです。

レパートリーはいろいろあり、昭和歌謡メドレーやスタジオジブリ作品の主題歌などがあったほか、オリックス・バファローズの応援歌「SKY」も演奏していました。以前は「それ行けカープ」を演奏していたこともあったらしく、もう何でもありです。

近鉄にちなんだ曲は、名古屋駅の名阪特急専用発車メロディ「ドナウ川のさざなみ」を冒頭のチャイムから演奏した年もありましたが、毎年やっているのは、往年の近鉄のCMソング「近鉄特急の歌」です。1961年に発表され、1980年に再アレンジされましたが、アーバンライナーが登場した時期あたりからCMで流れなくなりました。

ここでは生歌唱もあります。歌詞は、1番が近鉄電車で通勤するお父さん、2番が近鉄百貨店へ買い物をしに行くお母さん、3番は近鉄電車で修学旅行や遠足に行く子供を描いたものです。「2階の電車」とはもちろんビスタカーのことです。

ただし、近年のバージョンでは歌詞が一部変わっており、2番の「きっとデパート近鉄ね」が、あべのハルカスにちなんで「きっとデパートハルカスね」に、3番の「名古屋 奈良や 大阪へ」が「名古屋 奈良や 伊勢志摩へ」*4に変わっています。なお、作詞者の事務所の承諾済みとのことです。

ここから近鉄の歴史は始まった

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現在の奈良線大阪線の一部にあたる区間(上本町~奈良)が「大阪電気軌道」として1914年に開業した際に導入された電車「デボ1形」(1950年の番号整理で「モ200形」となる)で、当初から生駒山を登って奈良まで行くことを念頭に置いており、それに見合った性能を確保すべく、当時の電車としては最強の120kW級のモーターを2台装備しています。このころの関西圏の14~15m級木造電車は、40kW級のモーターを4個搭載するのが通例でしたが、この電車はモーター2個だけでも、全体の出力はほぼ2倍です。

現在、近鉄の電車は連結器も含めた全長は20.7mですが、もともと路面電車上がりの路線だったことや、実際に奈良市内に併用軌道があったという事情から全長は15mに抑えられています。

1948年に生駒トンネルでブレーキが故障して暴走し、河内花園で先行列車に追突したのはこの車両です。直接の原因はブレーキのエアホースが劣化して破損し、ブレーキが効かなくなったのが原因ですが、通常はブレーキのエアホースが破損しても別系統の非常ブレーキが効くようになっています。しかし、時期が時期だけに資材不足で非常ブレーキを殺して資材を節約していたことから、ブレーキが全くないのと同じ状態になってしまい、大事故に至りました。

1964年に引退してからは、開業時の姿に復元したうえであやめ池遊園地に展示していましたが、閉園に伴い五位堂へ運び込まれ、現在は五位堂で屋根付きで保存されています。
近鉄では旧型電車をほとんど保存しておらず、この車両だけが残されています。

ミニスナックカー

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東海道新幹線が開通後の近鉄特急は、名阪間でガチンコ勝負を挑んでも勝負にならず、名阪甲特急(ノンストップ特急)は利用者が激減しました。その一方で、京都駅や名古屋駅近鉄線に接続しており、そこから奈良大和路・伊勢志摩へ向かう乗客が急増しました。そのため、京都~奈良・橿原*5・伊勢志摩、名古屋~伊勢志摩の特急が増強されました。

しかし、ここで問題となったのは京都発着の特急に使う車両です。当時、京都線橿原線の車両限界は大阪線と比べても小さく*6、また電圧も大阪線が1500Vなのに対して京都線橿原線は600Vのままでした。その一方で、将来的に車両限界を拡大し、電圧も1500Vに上げるというプランがあり、これらの工事が完成すると大阪線などと車両を共通化できるようになるため、この時点で京都線橿原線大阪線を直通できる特殊設計(小型・複電圧対応)の車両を作っても将来は不要になり、投資が無駄になることから、なかなか製造に踏み切れませんでした。

当初、京都発着の特急は橿原神宮前行きのものしかなく、伊勢志摩方面へは大和八木で大阪発の特急に乗り換えてもらうことで対応していました。運行開始当初は試行的な要素が強く、これも車両の製造をためらわせる原因となりました。しかし、使われていたのは旧型車を少し改造した程度の車両であり、大阪~名古屋・伊勢志摩の特急と比べるとグレードが低く、予備編成ともなるとさらに質が低いものでした。さらに、京都~奈良の特急も設定されたことから、その予備編成まで駆り出されるのが日常化してしまい、特急料金を取っているのにこの程度の車両しか使えないことが問題となっており、何か策を打たなければいけない状態になってしまいました。

結局、車体は小型のものを新造し、足回りは旧型車から流用するという妥協案がまとまり、18000系として製造されました。車体幅は2590mm、全長は18640mmで、現在の車両と比べるとはるかに小さく、車体幅はかつての大阪線の一般車(2740mm)より小さくなっています。この時は、まだ伊勢まで乗り入れていなかったため複電圧対応はなされておらず、1969年に1500Vへ昇圧したときは大改造を必要としました。

18000系の車体設計を踏襲し、新品の足回りと組み合わせたものが18200系で、18200系の投入に合わせて京都~伊勢志摩の特急が設定されました。橿原線大阪線を直通することから複電圧対応がなされており、昇圧後は回路を1500V用に固定して切り替え装置を撤去しています。また、八木で大阪からの特急と連結して走る*7ことがあったため、幅の違う特急車両がつながって走っていることもありました。なお、青山トンネル事故では18200系が京都行きの編成となっており、伊勢寄りに連結されていた*8ことで大きな被害はなく、京都で行われる予定だった医療関係の学会に向かうために医師が数人乗り合わせており、その医師が現場での応急治療にあたっていました。

京都線橿原線向けの小型特急車の最終形態として、大阪万博の直前に18400系が登場しました。この時点では、京都線の車両限界拡大工事は完成していましたが、橿原線ではまだ工事ができていなかったため*9大阪線の特急車両と完全に共通化できませんでした。しかし、橿原線でも一部の工事は完成してカーブが緩くなったこともあり、過渡期の設計として、幅こそ2670mmと狭いままですが、全長は大阪線の特急車と同じく20640mmまで伸ばされました。
最初の2編成は昇圧前に登場したため、複電圧対応がなされていますが、昇圧後に投入された編成は1500V専用で投入されています。
さらに、編成の構成も12200系などと揃えられています。これは、18200系は必ず伊勢寄りに連結しなければならず運用に支障をきたしていたことや、昇圧後は他の特急車と共通運用を組むためです。
12000系・12200系に合わせてスナックコーナー(軽食コーナー)も備えられており、その名も「ミニスナックカー」です。
座席は、18200系までは初期の0系新幹線や5200系のような転換クロスシートでしたが、18400系では回転させるときに軸を通路側に寄せて回転させるスペースを確保する、「偏心回転式リクライニングシート」が採用されました。しかし、室内の幅が狭く、窓際だと窓かまちの下に肘掛が潜り込んでしまい、肘を置けないだけではなく、テーブル*10を出せませんでした。

その後、1973年に橿原線も車両限界拡大工事が完成したことから、12200系などがそのまま乗り入れられるようになり、京都線橿原線向け小型特急車の歴史に幕を下ろしました。

18200系・18400系ともに、車体が小さく狭いために特急としては居住性に難があったことから、のちに団体専用車に改造されました、18200系には、20100系「あおぞら」の後継ということで「あおぞらII」の名称が与えられました。18400系は増結用だったため、塗装こそ「あおぞらII」と同じですが特に名前はありませんでした。

18200系は、定員が少ないことと120km/hで走行できないことが問題視されたことや、老朽化により、12200系を改造した15200系「新あおぞらII」(「あおぞらIII」ではない)に置き換えられて廃車になり、18400系も、15200系を追加で投入したことから廃車になりました。
18400系は、引退前に特急カラーに塗り替えられ、往年の特急ヘッドマークも復元されました。その状態で先頭部が切り取られ、高安車庫で保存されています。

主として京都発着の特急に使われていましたが、暗黒時代の名阪甲特急では12200系の2両編成でも供給過剰ということがあり、18200系や18400系が使用されていたこともありました。当時、近鉄の内部でも「1両で走れる特急車を作ろう」とか、「甲特急を廃止してすべて乙特急*11にしよう」という話が出ていたほどでした。

かなえられなかった夢

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近鉄唯一のオールステンレス車にして電機子チョッパ制御車・3000系。ステンレス車体電機子チョッパ制御の試験車という役割でしたが、実はもう一つ目的があり、京都市営地下鉄烏丸線に乗り入れるための車両という位置づけでありました。その証拠に、3000番台の形式が与えられています。

1979年当時、オールステンレス車は製造に関するライセンスの関係で、東急車輛以外のメーカーでは製造できませんでした。しかし、近畿車輛東急車輛(さらに、技術提携先のバッド社)が持つ特許に触れない製造方法を模索し、オールステンレス車の製造にこぎつけました。

硬く曲げ加工が難しいというステンレスの特性から、当時の近鉄電車とは異なりかなり角ばった車体となっており、後に登場した8810系やインバータ制御車を思わせるような形となっています。その一方で、ヘッドライトの間隔がのちの車両と比べて狭くなっていたり、下の標識灯が8000系などと同じものになっているなど、当時の車両の特徴も見られ、過渡期の車両という感じもします。
ステンレス車は塗装をしないという選択もでき、同時期の南海電車では全く塗装していないという例も見られますが、この車両は顔を近鉄マルーンで塗り、側面はのちのJR西日本ステンレス車のように、戸袋部に近鉄マルーンの塗装をしています。

そして、地下鉄に乗り入れるということから、なるべく地下で熱を撒き散らさないようにすることも求められていました。その答えが「電機子チョッパ制御」です。当時、地下鉄では広く使われていたのですが、使っているうちに「郊外電車には向かない」ということがわかってきました。近鉄でも、まずは地下鉄直通用車両に使ってみて、その結果をもとに全線へ展開することも検討していたようですが、結局は採用されませんでした。

のちのインバータ制御でも同じですが、チョッパ制御は制御器から誘導電流が漏れるため、信号機器に悪影響を与えることから沿線での対策も必要でした。よって、運用は誘導障害の対策がなされた京都線橿原線天理線に限られており、奈良線は京都発着便として西大寺~奈良を時折走る程度で、生駒越えのための抑速ブレーキは付いていたものの難波まで来ることはほとんどなく、検査のために玉川工場へ行く程度でした。

なお、烏丸線への乗り入れは京都駅以南の開通が大幅に遅れたため、1988年までずれ込みました。その間に、車体はアルミ製を標準とし、インバータ制御の実用化にもめどがついたため、烏丸線への乗り入れ車両は3200系として改めて登場し、3000系が烏丸線に乗り入れることはありませんでした。

このように、結果として異端児となった3000系は、21世紀に入ると制御器の故障などが多発して運用に入らなくなり、高安送りになった後2012年に廃車されました。先頭部が高安で保管されています。

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烏丸線乗り入れ車両として投入されたのは3200系で、3105Fが五位堂で整備を受けていました。

顔は、地下鉄ではよくある非常口をずらした非対称デザインで、3200系特有の顔ですが、車体・窓の並びは長らく前後非対称だったのが前後対称になり、これ以降の車両の標準となり、「シリーズ21」でも車体構造が変わっているものの、窓の並びは受け継がれています。

今では当たり前だけど

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近鉄でのインバータ制御車の始まりはかなり早く、1984年に1250系が登場したのが始まりです。その後、インバータ制御車が量産されるのに伴い「1420系」に変わっています。

初期の近鉄のインバータ制御車は、運転席の後ろに「VVVF INVERTER」のロゴが貼られていました。「VVVF」は三相交流の波形をイメージしたデザインとなっており、左上に「INVERTER」と書かれています。5800系では代わりに「L/C」ロゴが付き、シリーズ21けいはんな線の車両にはついていません。

しかし、現在ではインバータ制御が当たり前となってきたせいか、車体更新の際にVVVFロゴが外されており、現在ではほとんど見かけません。奈良線阪神線乗り入れ対応車は、VVVFロゴをはがした場所にちょうちょマーク(阪神線乗り入れ対応車を示す)が貼られています。なお、5800系も側面の「L/C」ロゴがはがされています。

1420系のVVVFロゴは、のちの量産車とは異なりステンレスのプレートを取り付けています。外すのに手間がかかるのか、近鉄初のインバータ制御車ということで記念碑的なものとして残しているかどうかははわかりませんが、他の車両のVVVFロゴがはがされてもそのまま残っています。したがって、近鉄VVVFロゴがあるのはこの2両だけです。

インバータ制御の電車に「VVVF」ロゴを貼っていた事業者としては、他には西鉄や大阪メトロがありますが、西鉄近鉄と同じようにロゴをはがしています。一方で、大阪メトロでは市営時代から形式ごとにロゴをデザインしており、最新の30000系でも新たにデザインを決めて貼り付けています。
また、JRグループでは、JR東海クモハ103-4を改造してインバータ制御の試験をしていましたが、このときにJRグループでは唯一の「VVVF」ロゴを貼りつけていました。

*1:2003年まで、近鉄現業部門を束ねる組織は「営業局」と言っており、新青山トンネルより西側の標準軌線区は上本町営業局、南大阪線・長野線・御所線吉野線天王寺営業局、新青山トンネルより東側は名古屋営業局の管轄だった。なお、旧南海鉄道の路線を統合していた時代は、大阪軌道線(阪堺電車)は天王寺営業局の管轄だったが、南海本線高野線とその支線に関しては別途「難波営業局」を設置していた。

*2:摩擦ブレーキは熱でフェード現象が起きるため、抑速ブレーキには向かない

*3:界磁チョッパ制御でも回生ブレーキは使えるが、界磁チョッパ制御は従来の抵抗制御の延長線上にあるシステムであることから抵抗器は元々付いているため、特にこれといって追加の装備はされていない

*4:1961年当時は鳥羽線が開通しておらず、今ほど伊勢志摩への観光輸送に力を入れていなかった。伊勢志摩への観光輸送に力を入れだしたのは、1964年に「伊勢志摩総合開発計画」を策定して伊勢志摩エリアの開発に取り組んでから

*5:橿原神宮前で吉野特急に乗り換えて、さらに吉野まで進む

*6:なお、奈良線は新生駒トンネルの開通を機に車両限界が拡大された。ただし、奈良線の場合は通勤ラッシュ対策として一般車の大型化による輸送力の増強に迫られたためで、大阪線と共通の大型の特急車を運行するためではない

*7:1975年までは大阪線に単線区間が残っており、線路容量が今より少なく、大阪発着と京都発着の特急を連結して走っていた

*8:12000系や12200系は、奈良線の一般車と同じく大阪・京都寄りにMc車を連結していたのに対して、18200系は逆で伊勢寄りにMc車を連結しており、Mc車を突き合わせるとパンタグラフ同士が近接して架線を痛めることから、12200系と18200系を連結する場合、18200系は必ず伊勢寄りに連結されていた

*9:橿原線の沿線には遺跡が非常に多く、工事にあたって事前に発掘調査をする必要があり、当初予定していた時期より大幅に工期が遅れた

*10:当時の近鉄特急は、肘掛の中にテーブルを収納するのが定番だった

*11:名阪乙特急(主要駅に停車)は、名張・桑名・四日市など新幹線が通らない途中駅からの需要をくみ取れていたことから、甲特急とは逆に乗客はかなり多かった