球界の秋の風物詩のひとつとしてすっかり定着したドラフト会議。今年度も「グランドプリンスホテル新高輪」で行われ、各球団が1位指名の選手を選ぶところがMBSテレビで生中継されました。
各球団の1位指名選手
この表では、球団名は会議でのアナウンスに従って、順番は発表順に、氏名と所属・ポジションは、交渉権を獲得した選手は太字で、外した場合は取り消し線を引いて表記します。
○:単独指名 ☆:くじ引きで当たり
1位 | 外れ1位 | 外れ外れ1位 | |
---|---|---|---|
千葉ロッテ | 藤岡貴裕 ☆(東洋大・投手) | - | - |
横浜 | 北方悠誠 ○(唐津商業・投手) | ||
東北楽天 | 武藤好貴 ○(JR北海道・投手) | - | |
広島東洋 | 野村祐輔 ○(明大・投手) | - | - |
オリックス | 安達了一 ○(東芝・内野手) | - | |
阪神 | 伊藤隼太 ○(慶応義塾・外野手) | - | - |
埼玉西武 | 十亀剣 ○(JR東日本・投手) | - | - |
読売 | 松本竜也 ☆(英明・投手) | - | |
北海道日本ハム | 菅野智之 ☆(東海大・投手) | - | - |
東京ヤクルト | 川上竜平 ○(光星学院・外野手) | - | |
福岡ソフトバンク | 武田翔太 ○(宮崎日大高・投手) | - | - |
中日 | 高橋周平 ☆(東海大甲府・内野手) | - | - |
1位は全球団が一斉に指名し、発表はリーグ戦で下位の球団から行います。ただし、リーグの順番はオールスターゲームで勝ち越した方が先となっています。2位はこの順番で、3位は上位から、4位は下位から…という順番で全球団が指名し終わるか、全球団の指名した選手の合計が120人に達するまで繰り返し行います。各球団10人まで指名できます。
くじ運のない阪神
阪神といえば、1位指名が重複した場合のくじ運が恐ろしいほど悪いことで知られており、最近では菊池雄星や大石達也を指名してくじで負けています。結局2人とも西武に入りました。逆に、西武は非常にくじ運が強く、「渡辺監督は髪と引き換えにくじ運を手に入れた」などと冗談で言われています。
ただし、今年は“ポスト金本”として伊藤隼太を徹底的にマークし、一本釣りして獲得に成功したため、くじを引くことはありませんでした。
ただ昔の阪神は非常にくじ運が強く、1979年には“バックスクリーン3連発”の3発目でおなじみの岡田さんを6球団の競合(当時関西にあった全球団が指名した!)の末獲得した、ということもありましたが、1984年の嶋田弟*1以来くじで負けっぱなし。2008年に至っては外れ1位もくじで外すということがありました。
ちなみに、その岡田さんは、昨年のドラフトで「一度に3連敗」という見事なまでのくじ運の悪さを露呈し、今年も外してオリックスの監督になって以来4連敗。なぜか阪神の歴代監督は阪神以外の監督になってもくじ運が非常に悪いのです。
一本釣りのはずが?
東海大の菅野(すがの)智之。原監督の甥っ子として知られており、下馬評では巨人が一本釣りするとされていました。
もちろん巨人は指名しましたが、日ハムも強行指名してくじ引きに引きずり込み、なんと当たりくじを引いたのは日ハムでした。本人は巨人に入りたがっており、交渉が難航するのは必至で、最悪の場合入団拒否ということも考えられます。
過去にも似たようなことがありました。
江川事件(空白の一日)
大きな耳がトレードマークの江川卓。高校時代は作新学院のエース投手として鳴らしていました。ノーヒッターは9回、パーフェクトは実に2回もやっています。1973年、高校3年になると、各球団のスカウトが家に押し掛けるということがありましたが、本人は大学に行くつもりでいました。ただ、そのような事情があるにもかかわらず阪急が強行指名したものの「大学に行く」という意志が固く、結局入団拒否され、法政大学*2へ進学しました。
法政大学でもエースとして活躍し、4年後のドラフトを前に「巨人に入りたい」という意志表示をしました。ところが!今度はクラウンライターライオンズ*3が強行指名したのでした。1977年当時のドラフトは“早い者勝ち”で*4、先に指名されると後の球団は指名できなくなります。ただし、本人は「九州は遠い」といって入団を渋り*5、「作新学院の職員」という肩書を得てアメリカに野球留学します。その間にクラウンライターは西武グループに身売りされ、本拠地も所沢に移転し、交渉権も受け継がれました。
当時は、交渉権の有効期間は指名から1年以内、翌年のドラフト会議の2日前まで*6で、西武が持っていた交渉権の期限が切れました。交渉権の有効期限とドラフト会議の開催日、その間の1日に巨人が目をつけ、その日に「ドラフト外」という形で選手契約を結んだのでした。当時の野球協約では、ドラフト会議を通す必要のある選手は社会人を別にすると「日本の中学・高校・大学に在学している者」とされており、それは「江川はあくまで作新学院の職員で社会人野球にも行かなかったため、ドラフト会議を通さなくても入団させることができる」と解釈できてしまいます。実は、この年の8月に野球協約が改正され、ドラフト会議を通す必要がある選手は「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」とされたのですが、その新協約は次回の会議当日から発効することになっていました。
ただ、この主張を通してしまうとドラフトは骨抜きになるため、セ・リーグの裁定で選手契約は無効となり、それに反発して巨人はこの年のドラフト会議を欠席しました。「巨人のわがままは許さん」と言わんばかりに、阪神・近鉄・南海・ロッテが指名し、この年から導入されたくじ引きの結果、阪神が当ててしまいました。もちろん交渉は難航し、挙句の果てには巨人が「ドラフト会議の結果は無効だ」とコミッショナーに提訴するなど、事態は泥沼化していきました。結局は「阪神が交渉権を獲得」ということには変わりはありませんでした。
ところが12月になって、「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という要望が出され、春季キャンプの前日になって阪神と契約し、小林繁とトレードという形で事態は収拾されましたが、これはあくまで特例で一度限りとするようにされていました。
ちなみに、阪神と選手契約を結ぶにあたって、背番号はのちに八木・関本の背番号として知られるようになる「3」が与えられました。
2度の入団拒否
今でこそ巨人の主力選手として活躍し、4番も打った長野(ちょうの)久義。ですが、巨人に入りたいがために2回も指名を蹴っていました。
まず1回目。2006年の大卒・社会人4巡目(当時は高卒と大卒・社会人で別に行っていた)で日ハムから指名されたのですが拒否してHondaに入社。大卒の選手が指名を蹴って社会人野球に進むと最低2年間は指名できなくなります。*7
2回目。ロッテが2位指名しますがこれも拒否。なお、社会人野球の選手が指名を蹴ったとしても凍結期間はなく、翌年には指名できます。
そして3回目。巨人が1位指名して念願の巨人入りを果たしました。
同じように、菅野も指名を蹴って社会人野球に行って最低2年間プレーして指名を待つ、もしくは野球浪人する(この場合は翌年でも指名できる)という可能性もないことはありません。「一度日ハムに入団して、巨人の選手と交換トレード」は?