きんてつ鉄道まつり2019 in 五位堂&高安

関西の鉄道会社の秋の風物詩*1ともいえる、車両工場の公開イベント。今年も近鉄へ足を伸ばしました。

ここ最近、何らかの用事で近鉄電車に乗ることが年に一度あります。(2017年…伊勢の花火大会 2018年…奈良観光 2019年…パルスプラザで奈々さんのライブ)

高安でも体感

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カップホルダーを出した状態の「ひのとり」プレミアムシート

来春のデビューを間近に控えた、新型名阪特急「ひのとり」号。デビューに先立って、沿線の各地でプレミアムシートに座れるというイベントを実施しています。
既にあべのハルカスで体感してきましたが、改めて高安で体感しました。

前回撮り損ねた、カップホルダーを出した状態の写真があります。

大阪エリアでの体験会は終盤に差し掛かっており、11月からは名古屋地区での体験会が始まります。

メモリアルイヤー

今年から来年にかけて、近鉄のメモリアルイヤーが続きます。

これらはすべて、1970年の大阪万博に向けての一大プロジェクトとして展開されました。特に、奈良駅の地下化、難波線鳥羽線の建設、志摩線標準軌化は近鉄の社内では「万国博関連三大工事」と呼ばれています。

奈良駅地下化

奈良線は開業以来、奈良市内の関西本線より東側は国道369号の上を走っていました。ところが、この時期にもなると自動車が増えて渋滞がひどくなり、さらに新生駒トンネル・新向谷トンネルが開通して奈良駅まで大型車両が乗り入れるようになると、道路の上を国鉄より長い大型車両が走るという本来あってはならない事態も発生しました。実際は特認を得ており、道路の上を大型の電車が走ること自体は問題視されませんでしたが、将来的に編成を伸ばしたりするとなると、何らかの対策も必要となりました。
そこで、奈良県奈良市の都市計画として、近鉄線を地下化して、空いたスペースを用いて道路を広げることになりました。

工事は1968年に着工し、1969年12月に完成しました。奈良という土地柄、地下を掘ると何が出てくるかわからないのに、よく2年弱で地下化できたと思います。

地下化前は、関西本線をまたぐ場所*2に「油阪駅」がありましたが、西側から潜るようになったため廃止され、代わりに新大宮駅が開設されました。

その直前の9月21日に、奈良線京都線など電圧が600Vだった路線は一斉に1500Vへ昇圧されました。
余談ですが、奈良線大阪線が線路を共用していた時代の上本町~布施は600Vで電化されており、1500Vで走ることを前提に設計された大阪線の電車はノロノロ運転を強いられ、やむなく今里駅を通過して時間調整をしていました。この問題は、1956年に上本町~布施が複々線化されて解消されました。

難波線開業

近鉄の難波乗り入れ構想は大正時代からあり、古くは1922年に大阪府へ乗り入れ許可を願い出ていますが、このときは却下されました。

戦後、阪神と共同で野田阪神と上本町を結ぶ新線の計画を立てていたこともあり、近鉄の難波乗り入れ構想とリンクしましたが、ここでも大阪市の横槍が入って実現しませんでした。その際に大阪市が計画したのが千日前線で、野田阪神~鶴橋は当初近鉄阪神が考えていたルートとほぼ一致します。

その後、近鉄(特に奈良線*3の乗客が爆発的に増えて、上本町駅*4がパンク状態になるなど、難波乗り入れは急務となっていました。大阪市近鉄阪神の対立によりなかなか計画が進まず、果ては大阪府近鉄阪神の味方に付くなど泥沼化の兆しが見られたため、日本政府は都市交通審議会を開いて仲裁に入り、1958年にようやく近鉄の難波乗り入れが認められました。

その後2009年に、西側も「阪神なんば線」として完成し、近鉄電車が神戸へ、阪神電車が奈良へ足を伸ばすようになりました。
西側は西側で、1964年に西九条までとりあえず開業させたあと、1967年に第2期区間(西九条~難波)の工事に取り掛かりましたが、九条商店街の猛反発にあい、そのまま工事は中断し、その後は阪神本線の需要が低迷したことや、2度にわたるオイルショックで建設費が高騰し、とても自社の単独事業では建設できない状態にまでなってしまいました。なお、近鉄難波線近鉄の単独事業として実施されています。
その後、一転して九条商店街が活性化のために延伸を求めてくるようになったことや、予定地の近くに大阪ドームが建設されたこともあり、延伸計画は再始動しました。その際、線路を大阪ドームに寄せて、さらにドームの近くに駅を追加しています。また、延伸事業も上下分離方式を採用して、近鉄阪神などが出資する第三セクター会社「西大阪高速鉄道」を立ち上げて事業主体とし、運行に関する業務は阪神で行っています。

難波線が開業してからは、それまで上本町発着だった奈良線の電車はすべて難波まで乗り入れるようになり、一般的には奈良線の一部として認識されています。特急は名阪特急がメインで、伊勢志摩方面行きは一部が難波発着になった程度でした。

1991年までは、建設費を回収するため通常運賃に20円を加算していました。ただし、1991年に加算運賃が廃止されて値下げされたかというとそうではなく、通常運賃が値上げされました。*5

同時期に、座席予約システム(JRでいうところの「マルス」)が第2世代のものに更新され、窓口端末に特急券の発行機能が付いて、画面に出た座席番号を書き写す手間が省けて迅速な発券業務が実現しました。以前のシステムでは特急券を発行することができず、画面に出た座席番号を特急券の用紙に書き写していました。

鳥羽線開業・志摩線標準軌

かつて、近鉄の路線網は宇治山田~鳥羽が歯抜け状態で、鳥羽へ向かうには伊勢市駅参宮線に乗り換えを必要としていました。
また、志摩線は当初「志摩電気鉄道」という近鉄とは無関係の地場系の会社が運行していたのを、三重交通を経て編入した路線であることから、長らく他の近鉄線とは接続しておらず、電圧も750Vと低く、軌間参宮線に合わせて(貨物列車を直通させるため)1067mmでした。

1960年代に入って、近鉄は伊勢志摩の観光事業に力を入れるようになり、手始めに宇治山田~賢島の特急バスを運行しました。
宇治山田駅の1番線の隣にバス停を設置し、大阪・名古屋からの特急にバスを横付けして、宇治山田に到着後すぐバスに乗り換えて賢島へ向かえるようにしましたが、今後伊勢志摩の観光開発を円滑に進めるには、近鉄特急でそのまま賢島まで行ける方がいい、ということになって、1965年に志摩線近鉄編入されたのを機に、宇治山田~鳥羽の新線を建設し志摩線標準軌化する工事に取り掛かりました。この計画の裏側には、大阪万博に来た人たちを伊勢志摩に呼び込もう、という計算もあります。

奈良駅が地下に潜ったのと同じ時期に、五十鈴川まで単線で暫定的に開通しました。すぐに鳥羽まで複線で開業し、大阪・名古屋からの特急も走り出しました。

ちなみに、五十鈴川駅の当初の駅名は、近所の地名から「古市口」でしたが、南大阪線・長野線の「古市」と紛らわしくなるため「内宮前」としたものの、神宮や伊勢市当局の反対にあい、最終的に「五十鈴川」で決着しました。

また、全線開通と同時に、駅名に「近畿日本」*6と付いていた駅(奈良・名古屋など)は一斉に「近鉄○○」に改称されました。

快速急行のご先祖様

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左:快速急行 右:特急 どちらも8400系

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奈良線の「特急」ヘッドマーク

現在の近鉄特急は特急料金を必要とするものだけですが、昔は特急料金を必要としないものもありました。そのうちの一つが上本町(難波線開業後は難波)~奈良の特急で、現在の阪奈特急(有料)とは別物です。他に、新幹線開業前の京都~奈良・橿原神宮前の特急も特急料金は不要でした。

1956年に上本町~布施の複々線化が完成したのを機に運行を開始し、特急として走る際には鹿のヘッドマークを付けていました。途中の停車駅は鶴橋と西大寺のみで(難波線開業後は日本橋にも停車)、新生駒トンネルが開通するまでは専用車両として800系電車が用意されていました。

その後、全線で大型車両の運行が可能になってからは900系・8000系・8400系が特急運用を担うようになり、1972年に「快速急行」に改称されました。
快速急行になってからは、生駒と学園前にも停車するようになり、2000年からは新大宮にも停車しています。*7

阪神電車 in 五位堂

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甲子園行き臨時特急(虎マーク付き)

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姫路行き直通特急(板宿~三宮各駅停車、センバツ副標付き)

今年は、阪神なんば線開業10周年というメモリアルイヤーであり、阪神1000系の10周年記念特別塗装車(1210F)が五位堂にやってきました。

1000系は開業を前にした2008年にも顔を出しており、大阪線を走るのは11年ぶりです。また、開業前の試運転は新造したばかりの車両を尼崎ではなく高安に運び込んで走っていました。

近鉄の工場なのに、「甲子園」や「姫路」の表示を堂々と出していました。逆に、9000系は東二見で「大阪難波」の表示をしていたこともあります。

宙を舞う6600系

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6600系 in 五位堂

五位堂では南大阪線の電車も検査を受けており、今年はモ6603が40tクレーンの実演に供されていました。

6600系は、近鉄ではあまり見かけない界磁チョッパ制御の車両で*8、同世代の奈良線向け車両は8810系・9000系・9200系、大阪線名古屋線向けは1200系・1400系・2050系があります。6600系は2両編成が4本製造されたのみです。

かつては大阪線名古屋線南大阪線の車両は幅が狭かったため(奈良線車両や、現在の全線共通仕様車が2800mmなのに対して、この3路線の車両は2740mmだった)、1200系を1067mm軌間で走れるようにしたものととれます。

定期演奏会 in 五位堂

近鉄吹奏楽部は、毎年ここで演奏しています。実質的に、定期演奏会を兼ねていると言ってもいいでしょう。

ここでは、今年は(今年も?)どういうわけ「六甲おろし」を演奏していました。折りしも、初日は雨が降っており、サックスもいるので、奈々さんの甲子園ライブを思い出しました。

必ずやっている「近鉄特急の歌」は、3番の歌詞が変わっており、遠足の行き先がオリジナルの歌詞では奈良・名古屋・大阪だったのが、ここでは大阪の代わりに伊勢志摩となっていました。

三重交通カラー

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三重交通カラーの1430系

今年は、志摩線が開業して90周年です。これを記念して、1430系1編成(モ1438-ク1538)を三重交通の電車の色として走らせています。

志摩線は、元々は奥志摩と鳥羽を結ぶことを目的とした路線で、鳥羽から先は参宮線に乗り換えて伊勢・名古屋方面へ向かっていました。
地元有志によって立ち上げられた「志摩電気鉄道」が1929年に開業させましたが、現在とは異なり軌間は1067mm(参宮線との貨物列車の直通のため)、電圧は750Vでした。

その後、戦時統合で三重県内の中小私鉄・バス会社(三岐鉄道は除く)を三重交通に統合することになり、三重県内の私鉄は名古屋線・山田線といった幹線クラスの路線は近鉄が、その他の路線は三重交通が受け持つようになりました。なお、三重交通自体は母体となった会社が近鉄の前身企業のバス部門だったということもあり、早い時期に近鉄グループ入りしています。

三重交通自体は、鉄道は近鉄に任せてバス事業に専念しようと考えていたのか、1964年に鉄道事業を「三重電気鉄道」に分割して、わずか1年で近鉄に合併されました。
三重交通鉄道路線のうち、志摩線湯の山線と並んで大出世した路線で、標準軌化して大阪・名古屋から特急が直通するようになりました。

この色はかつての三重交通の標準色で、先に北勢線でも復刻されたこともあり、果てはバスにまでこの色(神都バス、かつて伊勢市内を走っていた路面電車・神都線の復刻)のものがあります。

フルカラーLED

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行先表示器をフルカラーLEDに交換した9020系(奈良線ver.)

関西の私鉄では、フルカラーLEDの行先表示器は阪急9000系を皮切りに一気に普及しましたが、近鉄ではなかなか採用されず、22600系の正面の表示器で採用された程度で、22000系のリニューアル・塗装変更に合わせて本格的に採用されました。

昨年から、シリーズ21で行先表示器をフルカラーLEDに交換した編成が出てきました。3220系はすべて交換されたようで、9020系でも奈良線ver.の一部に交換したものがあります。
なお、種別表示器はそのまま変更されていません。

これに合わせて、英語表記もすべて大文字だったのが、頭文字のみ大文字となるJR西日本などと同じ形式になっています。駅構内の掲示物では、先に2015年から大文字・小文字交じりになっていました。

*1:関東では春にやるところもあるが、関西は秋に集中している

*2:当時の関西本線は地上を走っており、近鉄線は築堤でまたいでいた。近鉄線が地下化されてから30年以上経って、今度は関西本線が高架化された

*3:特に奈良市生駒市の人口が急増し、増え続ける利用客に対応するため新生駒トンネルを掘って大型車両を走らせるようになった

*4:かつては奈良線も上本町駅の地上ホームから発着していた

*5:ただし、この時に運賃を改定したのは近鉄だけではない。通常、大手私鉄の運賃改定は全社一斉に行う

*6:以前は「近鉄」と略すと近江鉄道と混同されるという懸念があったせいか、「近畿日本」を付けていた

*7:各駅停車・準急のほとんどが西大寺で折り返すようになり、本数が減少する分を補うため

*8:近鉄では界磁チョッパ制御の導入が他社より遅く、逆にインバータ制御の実用化は早かったため、界磁チョッパ制御の車両は少ない