大阪市内のみを走るJR西日本の路線と言えば大阪環状線ですが、その大阪環状線は開業60周年を迎えます。
それを記念して、京都鉄道博物館では関連イベントを開催します。今週末には、103系が大阪環状線から撤退して以来4年ぶりにやってきます。
大阪環状線のあゆみ
大阪環状線が開通したのは1961年4月25日ですが、その前身となる路線はすでに明治時代に開通しており、足りない線路を補って環状にしたという形で大阪環状線が成立しています。
前身となる路線は以下の通りです。
ここに、西九条から西区・大正区内を通って大阪臨港線と合流する新線を組み合わせたのが大阪環状線です。その大阪臨港線も、合流地点から今宮駅までが大阪環状線に編入され、合流地点に境川信号場が新設されています。弁天町駅・大正駅はその新線上に、芦原橋駅は大阪臨港線から大阪環状線に編入された区間に開設された新駅です。
当時は新今宮駅と芦原橋駅はまだなく、今宮駅には関西本線の列車しか停車しませんでした。
城東線は1895年に大阪鉄道(初代、後の関西鉄道)が開通させた路線で、文字通り大阪城の東側を走る路線でした。大阪城公園駅以外はすべて城東線時代に開業した駅です。
本来の目的は、官設鉄道(東海道本線)と関西鉄道線を連絡することで、当初は湊町(JR難波)からまっすぐ梅田を目指すルートも考えられていたようですが、市街地を貫通することになるため、町外れとなる現在のルートで落ち着きました。西側は西側で、木津川・安治川への架橋が船舶の出入りが非常に多いために難しく、東側を通すしかない状態でした。
西成線は、安治川の河口付近で築港工事(大阪港第1次修築工事)をすることになり、資材を運搬するための路線として西成鉄道の手により建設されました。こちらも、ユニバーサルシティ駅以外は西成線時代に開業した駅です。
西成というと現在では西成区が連想されますが、路線名と会社名は西成区ではなく、開通当時の「西成郡」にちなんでいます。当時の西成郡は西成区よりかなり広範囲であり、福島区・此花区・港区・大正区・西淀川区・東淀川区・淀川区の全域や北区の一部も含んでいました。
このような事情から、関西本線・城東線・西成線ともに町外れを走っており、郊外へ延びる私鉄のターミナルが市街地に入り込むという状態でした。そのため、主要な私鉄のターミナル(梅田・淀屋橋・天満橋・難波・上本町)は今でも環状線の内側にあります。
開通後、城東線・西成線の内側も市街地となり、大阪市内のみを通る路線となりました。戦前から環状線にするという計画自体はありましたが、安治川への架橋が難しいことや、西側の人口がさほど多くなく利用客が見込めないという理由で放置されていました。
戦後になって、復興計画の一環として環状線の計画が再び動き出しました。このときは当時の大阪市長も協力し、新線の建設と、当時鉄道駅がなかった港区・大正区への新駅開設を働きかけていました。1956年に着工しましたが、これも安治川への架橋が反対運動で難航したため、1960年に開通予定だったのが1年遅れてしまいました。
1961年4月25日に西九条から大阪臨港線へつながる新線が開通しましたが、このときは旧西成線区間が地上にあり、完全な環状線にはなっていませんでした。そのため、桜島線(新線の開通を機に、西九条以西を分離)と直通して、桜島~西九条~大阪~京橋~鶴橋~天王寺~大正~西九条というルートで逆「の」の字運転を行っていました。
その後、1964年には旧西成線区間が高架化されて西九条で線路がつながり、完全な環状線となりました。それまでは大阪~福島が単線でしたが、高架化を機に複線化されています。
新今宮駅はこれと同時に開業しましたが、当時は環状線と関西本線で線路を共用しており、ホームも2本しかなく、さらに当時の関西本線は非電化で、気動車と電車では著しく性能差があったため、環状線の電車のみ停車していました。1966年には南海電車の新今宮駅も開業して乗換駅となりましたが、その際に芦原橋駅(1966年に開業)と新今宮駅に機能を受け継がせる形で今宮駅を廃止するという計画が持ち上がりました。ただし、地元の猛反対にあい、今宮駅も存続して現在に至ります。
1968年には、天王寺~新今宮の複々線化が完成して環状線と関西本線の線路が分離されました。ただし、新今宮駅に関西本線の列車が停車するのは1972年のダイヤ改正からです。
1973年には関西本線が奈良駅まで電化され、これに合わせて日曜・休日のみ関西本線の快速電車が環状線に乗り入れて大阪駅まで直通するようになりました。翌年には平日も乗り入れるようになり、平成になって221系を導入すると同時に「大和路快速」へ発展します。
1983年には、大阪築城400年まつり・大阪城博覧会に合わせて大阪城公園駅が開業しました。現時点で、大阪環状線では最新の駅です。
1997年、今宮駅に環状線のホームが設置されて環状線の電車も停車するようになりましたが、既存の駅にホームを追加しただけなので、純粋な新駅としては大阪城公園駅が最新です。
車両のあゆみ
城東線・西成線時代は72系などの旧性能電車が主力でしたが、大阪環状線の開通前後に101系が投入されました。中央線に次いで、2番目に101系が投入された路線だということはあまり知られていないようです。色も中央線と同じくオレンジで、現在の323系にも受け継がれています。
投入当初は6両編成でしたが、1970年からラッシュ時の混雑対策として一部が8両編成になりました。この際、すでに103系は投入されていましたが(1969年~)、101系も8両編成にしたために101系と103系が並行して投入されるという状態でした。1976年までに8両編成化は完了しています。
101系は当初から駅間距離の短い路線には向かないとされており、103系を追加投入して101系を置き換え、1979年に環状線の8両編成は運用は終了しましたが、桜島線用の6両編成が残されており、1985年まで直通電車として環状線を走ることがありました。また、101系は一部の車両が103系に編入されており、これらの車両が2002年まで走っていました。
JRになってから、片町線から桜島線に101系が転属して一時的に復活したことはありましたが、1991年の大阪環状線開通30周年イベントをもって引退し、JR西日本から101系は姿を消しました。
長らく103系が主力でしたが、2005年になって京阪神地区に321系が投入され、201系が置き換えられました。その201系を103系の置き換えに充てることにしましたが、当初は4・6・8両編成に組み直すという計画がありました。ただし、大和路線・奈良線への投入を想定した4両編成の場合、ラッシュ時の大和路線~環状線直通電車として2本連結する運用があり、103系と201系は連結できないため、共通運用ができず不都合をきたすことから、6両編成と8両編成のみになりました。
8両編成は16本すべてを環状線に集約しましたが、6両編成は14本を大和路線に、2本を桜島線に配置する予定でした。実際は、おおさか東線向けに車両が必要となったため、6両編成はすべて奈良電車区に集約されました。
21世紀に入ってホームドアを整備することになり、その下準備としてドアの数をそろえることになりました。このときになると、103系も201系も老朽化が著しくなってきており、新型車両を導入して全面置き換えとなりました。
2016年から導入された323系は、歴代の環状線用車両として初めて専用設計された車両です。
開発に当たっては、ドアの数をどちらにするか、実際に丸一日3ドア車(221系・223系・225系)のみで運行して検証をしていましたが、最終的に3ドアでよいということになり、103系と201系をすべて置き換えて3ドアに統一されました。
置き換え完了後、ホームドアの運用が大阪駅や京橋駅で始まりました。
京都鉄道博物館における103系
京都鉄道博物館では、入場門をくぐって最初に通るプロムナードにクハ103-1が展示されています。これは、1976年から2007年まで大阪環状線で運行され、その後は阪和線で2011年まで走っていました。
番号が示すとおり、山手線向けに投入された第一陣で、1971年に京浜東北線へ移籍しましたが、5年ほどで大阪環状線に移籍しています。では、反対側の先頭車「クハ103-2」はどうなったかというと、これも山手線に投入されたあと、京浜東北線に転属するまでは同じでしたが、こちらは阪和線、片町線、福知山線を転々とした後に2005年に再び阪和線へ戻り、2007年になって31年ぶりに同じ編成に組み込まれました。
2017年に103系が引退した際は、最後まで環状線を走っていたクハ103-802・843が展示され、これを最後に廃車されました。
JR西日本の103系は長期にわたって運行されたため、腐食対策として戸袋や妻面の窓が埋められ、正面窓の周りを鉄板でカバーしており、原型をとどめた車両はありません。
そして、関西で残っている103系は、奈良線・加古川線・播但線・和田岬線のものだけになりました。よって、大阪府では103系は既に走っていません。
なお、奈良線の103系も阪和線から転属してきた205系に置き換えられ、4両編成が2本残るのみとなりました。
今回、奈良線で走っている103系が京都鉄道博物館にやってきました。
今は奈良線での運用だけですが、方向幕は大和路線・桜井線・和歌山線のものも入っています。また、通常ではほとんど使うことがない「大和路快速」の表示も入っています。
国鉄~JR初期の券売機
今でこそ、券売機はタッチパネル式で、100kmまでの乗車券が買えるようになっていますが、国鉄時代からJRの初期には120円・150円・160円の切符しか買えない機種も存在しました。
営団地下鉄には初乗り運賃専用の券売機がありましたが、当時の券売機はどの会社でも同じように機能が絞られていました。券売機が多機能化したのは1990年代に入ってからです。
これは実際に鶴橋駅で使われていたもので、最長で内回りは福島、外回りは弁天町まで、阪和線は杉本町まで、片町線は片町と徳庵まで、大和路線は湊町(JR難波)と加美まで買えました。
野田・西九条、大和路線の加美以遠、阪和線の杉本町以遠、片町線の徳庵以遠、大阪駅で乗り換えて東海道線・福知山線の駅まで利用する場合や、南海電車(新今宮乗り換え)・京阪電車(京橋乗り換え)との連絡切符を買う場合は、別の券売機を使用するように案内されています。
この券売機が稼動していた時代は、今宮駅には環状線の電車が停車しなかったため、路線図上では今宮駅は大和路線のみの駅として、環状線から分岐した先にあるように書かれています。
券売機はここまで進化した
国鉄時代からJR初期の券売機は、1種類の切符しか発売できないものが多く、運賃ごとに券売機がいくつも並んでいるという光景が見られました。後になって複数種類の切符を発売できる機種も出てきましたが、環状線などにあったような2~3種類程度しか発売できないものでした。また、使用できる現金も10・50・100円硬貨のみでした。
100kmまでの切符を買えるようになったのは国鉄末期になってからで、オレンジカードが登場してからその対応も兼ねたものでした。また、500円硬貨や1000円札が使用できるようになったのもこの時期からです。
JRになってからもしばらくは国鉄時代の機種を引き続き使用しており、上にある表示板を差し替えただけのものでしたが、1990年代に入ってから現在の券売機に近い傾斜型の機種が導入されています。この当時は、ボタン式とタッチパネル式の2種類があり、5000・10000円札が使用できるようになりました。
国鉄時代の券売機で子供用の切符を購入する際は、小児運賃のボタンがまた別に備わっており、カバーをめくって押すという感じでしたが、JR移行後の券売機では「小児」ボタンを押して運賃表示が変わってから運賃ボタンを押して購入するようになりました。そのため、ボタンにデジタル表示が内蔵されているか、ボタンの上にデジタル表示があります。
ただ、ローカル線で見られる、食券の販売機を流用した機種では現在でも大人用と子供用が分かれています。
かつての券売機は1枚ずつ購入しないといけなかったのですが、こちらも枚数のボタンが追加されて複数枚購入できるようになり、現在の機種では大人・子供両方の切符をまとめ買いできるようになりました。
現在では、ICカードのチャージにも対応しているほか、定期券の継続手続きができる機種も出てきています。定期券の継続手続きができる機種は、金額が万単位になるため、クレジットカードにも対応しています。
さらに、指定席券や企画乗車券を購入したり、オンラインで予約した切符の受け取りができるものもありますが、これは券売機というよりはマルス端末の一種です。実際に「MV端末」と呼ばれています。