奈々ちゃんの座長公演で前日入りし、前々から撮りたかった千代田線(北綾瀬支線除く)の写真撮影に励んできました。
-千代田線のレジェンド-
言わずと知れた、日本初の回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御車です。電機子チョッパ制御そのものは阪神7001・7101形で実用化されていましたが、これはメンテナンスフリーを実現する(抵抗器やカム軸などの複雑な機構をなくす)のが目的であり*1、回生ブレーキはありませんでした。
これまで、正面が貫通型の電車は貫通扉を真ん中に置くのが通例となっており、営団地下鉄だと5000系までこのスタイルを踏襲し続けていました。実際、5000系までは先頭車同士を突き合わせて運行することがあり、非常時に通り抜けができるよう真ん中に配置していました。
これに対して、6000系以降は10両すべてを貫通させた固定編成で運用することを前提としており、貫通扉は必ずしも真ん中にある必要はありません。そこで、運転席からの視界を広く取るため貫通扉を助手側にずらし、その貫通扉は上から下に開き、貫通扉が非常階段になるように作られています。このデザインは、7000系(有楽町線)や8000系(半蔵門線)にも踏襲されたほか、全国の地下鉄車両にも影響を与えました。烏丸線の10系(初期の9編成)は、6000系・8000系・近鉄の一般車を掛け合わせたようなデザインになっています。
確かに回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御は省エネ効果が高いのですが、モーター自体は抵抗制御のころから変わっておらず、こちらのメンテナンスが大変でした。営団地下鉄でも9000系・06系・07系を皮切りにVVVF制御が普及しだしたため、1995年からVVVF化工事が開始され、19編成に施工されました。改造されなかった車両はどうなったのかというと、16000系に置き換えられて2012年までに全廃されました。
登場時のキャッチコピー「21世紀の電車」に恥じることなく、21世紀になっても千代田線の主力車両として活躍し続けてきましたが、初期車は40年を超えてきました。また、東京メトロの方針として「10年で小規模、20年で大規模、30年で小規模の更新工事を行い、40年で運用を離脱」というものがあり、その方針通りにいくと初期車は廃車の時期を迎えます。そのため、小田急のATS更新も兼ねて2010年から16000系を導入し、チョッパ車は2012年までに全廃、VVVF車も2017年には全廃されます。40年もの寿命を全うして廃車された編成もあれば、6135Fのように20年ほどで廃車された編成もあります。
6121Fまでは窓が小さく狭苦しかったのですが、6122Fからは地上の通勤電車並みに窓が大きくなり、1段下降式に変更されました。それ以前の編成でも、窓が小さいまま1段下降式に変更されています。
「百位で連結位置、下2桁で編成番号を表わす」という番号のルール*2は、6000系の2次試作車で確立されました。
16000系
-スポーツカーのテイストが入った地下鉄電車-
千代田線の実質的な初代車両である6000系も、登場から40年たっており置き換えの時期に差し掛かっていました。また、小田急のATSを更新することにもなったため、06系以来18年ぶりの新車として2010年より投入が開始されました。06系は増発用として1編成が投入されただけであり、千代田線の車両としては実質的に2代目に当たります。
6000系がそうであったように、デザイン・技術の双方で新機軸をふんだんに取り入れています。
デザイン:「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」として知られる、奥山清行によるデザイン監修
技術:減速機の付いた電車では初めてPMSM(永久磁石同期電動機)を採用*3
「日本の地下鉄電車で一番かっこいいのではないか?」という声も聞かれます。
初期の5編成は貫通扉が真ん中にありますが、乗務員から「視界が悪い」「非常時に運転装置が邪魔をして脱出しづらい」という声が上がったため、16106Fから貫通扉がずらされています。
6000系もそうなのですが、運行トラブルが発生すると千代田線・小田急線の相互直通を中止し、小田急線を走っていたメトロ車は新宿駅に顔を出すことがあります。6000系・06系は方向幕に「新宿」の表示がなく、新宿行きに変更された場合は表示を消すことがあったのですが、16000系には「新宿」をはじめとした小田急用の種別・行先表示が一通り*4入っています。
-新世代の地下鉄直通JR車-
千代田線・常磐線各駅停車のATCが更新され、列車の増発が可能になったことから、実際に増発することになり、1999年に2編成が投入されました。
地上用の209系は4M6Tを基本としていますが、これでは千代田線をまともに走れないため、209系では唯一6M4Tで編成が組まれています。また、209系でありながらモーターはE231系と同じものが使われています。
203系以来の伝統で、幕板には帯が巻かれていません。これは図らずして、常磐線快速用のE231系(こちらはエメラルドグリーンの帯を巻いている)との識別ポイントになりました。各駅停車用には幕板の帯がないのはE233系にも受け継がれています。
当初、パンタグラフは剛体架線対応のPS21(ひし形)を装備していましたが、現在はシングルアーム形に交換されており、209系500番台と同様にひじが車体の中心を向いています(E233系とは逆)。
小田急直通対応工事は対象外であり、残すと運用が面倒になる*6ことを考えると、どこかへ放出するか廃車という可能性もあります。
-小田急なのにJRっぽい-
小田急の千代田線直通用車両としては3代目です。どういうわけか、小田急は千代田線直通用車両の世代交代が早い*7傾向があります。
これまでの小田急の車両に対する考え方に反して、可能な限りE233系との共通化を視野に入れており、足回りはE233系そのもので音も全く同じであり、行先表示のフォーマットも同じです。
千代田線用の自動放送がなく、車掌が生でアナウンスをします。また、千代田線に入ると車内のLCDの表示が16000系と同じタイプになります。
かつての9000形・1000形と同じように、千代田線直通専用というわけではなく、新宿駅に顔を出すことがあります。特に、現在では一般車の途中駅での切り離しがないため、10両固定編成でありながら新宿発着の列車に投入されることがあります。
1000形までは6+4両編成の千代田線直通対応編成もありましたが、大邱地下鉄放火事件の後に非常時の避難がしづらい*8ことが発覚したため、4000形では10両固定編成のみ投入されました。千代田線直通運用を外された1000形はどうなったのかというと、乗り入れ関連機器を取り外して地上専用車になり、5000・5200形の置き換えに回されました。
現在、常磐線への乗り入れ対応工事が進められており、施工済みの車両の先頭車を見るとJR用の無線アンテナが2本ついています。2本ついているのは、通信の安定性を確保するためで、近年のJR東日本の電車でよく見られます。
過去の車両
5000系
5000系といえば東西線のイメージが強いのですが、北綾瀬支線でつい最近まで走っていたほか、一時期は本線で6000系が登場するまでのつなぎ役として走っていたこともありました。
6000系は全く新しい制御装置を採用していたことからじっくり時間をかけて熟成させたいと考えていたらしく(2回も試作車を作ったほどである)、1969年に第1期区間(北千住~大手町)が開業した際は、当時東西線に大量に導入が進められていた5000系を代わりに投入しました。この時期は3両編成でしたが、わずか1年で5両編成化され、この時に常磐線乗り入れ対応工事も施工されました。
1971年に第2期区間(大手町~霞ヶ関)が開業した際、6000系の量産車が投入され、これとともに10両編成での運行を開始しましたが、5000系は5両編成を2本つないで10両編成としていました。
また、1979年に北綾瀬支線を開業させた際、そこで使う車両として3両が追加投入されました。先述の5両編成2本と組み合わせ、中間に入る先頭車と差し替え、10両固定編成と3両編成を1本ずつ組み、10両編成は本線、3両編成は北綾瀬支線で使うようにしました。また、中間の先頭車を抜かれなかった残りの編成も、3両編成を北綾瀬支線の予備車*9として使えるよう、5+5両編成から3+7両編成に組みかえられました。
6000系が登場するまでのつなぎ役と言った感じでしたが、千代田線での5000系の活躍は意外と長く、本線用は1981年まで、北綾瀬支線用は2014年まで走っていました。ただし、1978年に代々木上原まで開業して小田急線とつながった際は、撤退が近かったせいか小田急線乗り入れ対応工事は行われず、小田急線を走ることはありませんでした。
なお、北綾瀬支線で最後まで走っていた5000系は1979年に投入された車輛とは別物です。これは、最初に北綾瀬支線向けとして投入された5000系はセミステンレス車*10で耐久性が著しく悪く、鋼体の劣化がひどかったため、初期に試作されたアルミ車と入れ替えられたためです。
1993年のダイヤ改正で増発され、営団の車両運用が1つ増えました。その際、6000系からフルモデルチェンジした車両として、6000系量産車以来22年ぶりの新形式となる「06系」が投入されました。
21世紀の地下鉄車両に求められることを「人と環境に心を配り、おだやかで上品であること」と定義し、有楽町線の07系と同時並行で開発が進められました。そのため、06系と07系は単なる色違いのように見えます。(実際は06系の方がブレーキがきつい)
路線の環境が特殊であった9000系を別にすると、営団地下鉄では初のVVVF車で、後に01系~05系も途中からVVVF車が投入されました。
ただし、06系は1編成を投入しただけでその後は追加投入されず、時が下って6000系の置き換えが具体化した際には06系からさらにフルモデルチェンジされ、16000系が投入されました。1編成しかなく使いづらいため、2015年に廃車されました。
同時並行で投入された07系も、ドアの配置が異なるせいでホームドアに対応できず、東西線送りにされてしまいました。その07系も、1編成だけショートリリーフとして千代田線で4カ月ほど走っていました。
常磐線では、1971年に綾瀬~我孫子の複々線化が行われ、各駅停車が千代田線と相互直通を行うことになりました。そのために投入された車輛が103系1000番台です。
国鉄では、すでに中央線各駅停車と地下鉄東西線の相互直通用車両として301系を投入していましたが、走行機器は103系と同等でありながら、アルミ車体*11にエアサスなどコストのかかる装備が多数あり、当時必要だった数をそろえただけで製造が打ち切られました。
後に常磐線と千代田線の相互直通用車両を投入する際は、単純に103系の延長上にある車両としてコストを抑えました。実際、スタイルは103系の低運転台車に非常口を付けただけのような感じになっています。また、塗装はエメラルドグリーン1色塗りの快速と間違えないよう、グレー地にエメラルドグリーンの帯としていました。
後に中央線の東西線直通対応車両を増やすことになった際、コストがかかり過ぎた301系の代わりとして投入されたのが103系1200番台で、これは実質的には103系1000番台の中央線・東西線バージョンといえます。実際、1000番台が中央線に転属したこともあったほか、逆に常磐線に転属した1200番台*12もあります。
6000系は消費電力と発熱が少ない、回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御でしたが、103系は単なる抵抗制御であり、走ると大量の熱をトンネル内にまき散らします。また消費電力も6000系と比べると非常に多かったため、営団は国鉄に電気料金の差額を請求していました。
1982年に我孫子~取手が複々線化されたのを機に、営団からの要請もあり6000系・201系に準じた回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御車の203系で置き換えられ、103系はエメラルドグリーン1色に塗られて快速に転用されたほか、105系に改造されて奈良・和歌山地区に転出しました。
JR西日本の207系とは型式が同じであること以外何も関係ありません。
1984年より、国鉄ではVVVFインバータの研究開発に取り組んでおり*14、第1段階として101系を改造して走らせ、データを取っていました。第2段階は、営業運転を行いつつ試験を行うというもので、そのために投入されたのが207系900番台です。
なぜ常磐線各駅停車・千代田線が選ばれたのかというと、1986年11月のダイヤ改正で国鉄の所要編成数が1本増えるためで、そのついでに203系と性能を比較できるのでちょうどよいということからです。
当時の制御器のメーカー5社(三菱・日立・東芝・東洋・富士)が総動員されており、1両ごとに(東芝だけ2両ある)違うメーカーの制御器が搭載されています。
ただ、当時のVVVF制御器は非常にコストが高く、205系と同等のコストにするには4M6Tで編成を組む必要があり、そうしてしまうと千代田線をまともに走れなくなるという問題がありました。また、雨が降ると空転が多発するなど性能面でも満足がいくものではありませんでした。
結局この1編成が投入されただけで終わってしまい、これが原因で営団は01系~05系をチョッパ制御で投入するという道を選びました。営団地下鉄でVVVF車が本格的に普及しだしたのは9000系・06系・07系からで、01系~05系も途中からVVVFに変更されています。
試作車ということで特殊な部分が多かったため、E233系2000番台が登場すると真っ先に置き換えられました。
10両編成のうち、6両(1・5・6・8~10号車)を川崎重工で、4両(2~4・7号車)を東急車輛で手分けして製造し、最初の6両は京阪神地区で試運転を行いました。後に京阪神地区にも別の207系が投入されたため、207系全番台が走った区間が存在します。
千代田線が「東京9号線」として計画された当時のルートは、「喜多見方面より原宿、永田町、日比谷、池ノ端しのぶ亭および日暮里の各方面を経て松戸方面へ向かう路線」とされており、綾瀬~松戸は常磐線の複々線化、代々木上原~喜多見は小田急線の複々線化を行うことになりました。この時点で小田急線との相互直通運転は決定しており、そのための車両が必要となりました。それが9000形です。9号線に乗り入れるため「9000形」*15とされました。
当時、小田急では車両の大型化による輸送力増強を進めており、5000・5200形の投入を進めていました。一方で、1974年をめどに直通運転を開始するという方針が定まり、また小田急では年間に新造する車両数を20~30両程度としていたため、必要な車両を早めに用意しておく必要がありました。その間、5000・5200形の製造を止めてまで9000形を投入することとしたため、新宿発着の電車にも使えるような設計となっています。
この当時の小田急スタイルは、灯火類が上にまとまった貫通型で、行き先表示が貫通扉にあるというものでしたが、営団6000系がデザイン面で大きなインパクトを与えたことから、6000系と並んでも恥ずかしくないデザインを目指して設計されました。ヘッドランプとテールランプが窓の下に移動し、窓が引っ込み(ゆえに“骸骨顔”と言われる)、行き先表示が貫通扉の上に移動しました。後に登場する8000形・1000形・2000形もこのデザインをおおむね踏襲しています。
足回りは界磁チョッパ制御でしたが、これは従来の抵抗制御の延長上にあるシステムで、床下から熱をまき散らすことに変わりはありませんでした。また、車体が重く、回生ブレーキが付いていたとはいえ消費電力が多かったため、国鉄と同じように小田急も営団から電気代の差額を請求されていました。
それもあり、わずか10年ほどで千代田線乗り入れ運用からは撤退し、新宿発着の電車で活躍していましたが、普通鋼製なのに1段下降窓を採用しており、そこから雨水が入って車体の劣化が早く進行し、また乗務員や保線要員からも「ブレーキの効き方が他の車とは異なっていて運転しづらい」「車体が重すぎて線路がすぐ痛む」などとあまり良い評価は聞かれませんでした。そのため、新3000形と入れ替わる形で2007年に引退しました。
4両編成は全車にモーターが付いており、その高出力を生かして電気機関車の代わりとして使用されていました。小田原や新松田まで新車を迎えに行くのに使ったり、故障した車両を工場まで連れて行くという用途にも使われていました。
小田急初のステンレス車にしてVVVF車です。9000形に代わる千代田線直通用車両でもあります。9000形と同様に、千代田線直通と新宿発着便の双方に使えるようになっています。
この1000形では、混雑対策としてドアの幅を2mまで広げた車両がありました。ドアを広げて乗り降りをスムーズにさせるという発想から作られたもので、JR東日本などで見られる6ドア車と比較されましたが、昼間になると座席が少ないことが問題視され、また乗り降りが大してスムーズにならなかったことから、東急車輛*16でドアの開口幅を1.6mに狭められ、後に登場した2000形や3000形(初期車)では最初からドアの開口幅が1.6mになっています。ワイドドア車は千代田線直通には対応していません。
千代田線には4+6両編成で乗り入れていたこともありましたが、6号車と7号車*17の間は常時貫通しておらず、非常時にいちいち貫通扉を開けるという手間がかかりかえって危険なことから、老朽化した地上専用車の置き換えを兼ねて新4000形(こちらは全て10両固定編成)を投入することになり、1000形は千代田線直通運用から撤退しました。
ただ、分割できる構造を生かして「箱根駅伝応援号」*18に2007年まで使用されていました。