40年越しの阪神・近鉄相互乗り入れ構想

阪神近鉄の相互乗り入れの話は戦後すぐからあり、初期の計画では野田〜難波〜上本町というルートが考えられていました。ところが市内交通は大阪市がやるという「市営モンロー主義」を掲げていた大阪市が猛反発し、ほぼ同じルート*1で地下鉄5号線(千日前線)を計画しましたが、実際にはかなり後回しにされ、大阪府近鉄阪神側に回るという事態にまでなってしまいました。結局は都市交通審議会で大阪市側が折れる形で、当初のルートとは異なり千鳥橋〜難波〜上本町間が認可されました。ただし、千日前線も認可されたのですが。

近鉄側は上本町〜難波間を建設することになり、これは1970年に難波線として開通しました。また、阪神側は千鳥橋〜難波間を建設することになりましたが、戦前に尼崎〜千鳥橋間が開通していた西大阪線を難波まで延長することになり、1964年にとりあえず西九条まで開通させました。

戦前に開通した尼崎〜千鳥橋間は、もともとは阪神本線の高速別線(第二阪神線)として計画されたもので、梅田〜福島間を複々線化し、福島から千鳥橋・尼崎を経て岩屋までまっすぐ走り、地下線で三宮まで乗り入れ、さらに湊川まで乗り入れる計画まで立てていました。山陽も明石〜湊川間の高速別線を計画していたため、これと接続することも考えていたようです。また、御影駅の留置線もこの計画の名残(複々線の用地を留置線に転用)とされています。

1967年から西九条〜難波間の工事にも取り掛かりますが、九条商店街などが西大阪線の延伸によって町が分断されることや、神戸・難波方面に買い物客が逃げることを懸念して反対したためわずか1か月で中止、その後は本線の需要が低迷したことや建設費の問題もあり、何十年も塩漬けになってしまいました。

近鉄乗り入れを想定して投入されたのが3801・3901形で、安治川を渡ってすぐのところにある35〜40‰の急勾配*2生駒山越えに対応するために発電ブレーキ・抑速ブレーキを装備しています。ところが、延伸計画が塩漬けになってしまったため、4両編成だった3801・3901形は使い勝手が悪く、6両編成と2両編成1本ずつに組み直されました。もともと3編成投入されていたので6両編成が2本となるはずですが、1編成が須磨寺〜月見山で原因不明の脱線事故を起こし運行停止、その1年後に廃車となり8両しか残らなかったためにこのようになってしまいました。

1997年、大阪ドーム(京セラドーム大阪)が開業すると一転、沿線の商店街が延伸に期待を寄せるようになりましたが、あまりにも建設費が高くつくため、「西大阪高速鉄道」なる第三セクター会社が建設を担当し、運行は阪神が担当するという「上下分離方式」で事業が進められることになりました。かつてこの計画に猛反対していた大阪市が出資していますが、かなりうがった見方をすれば「京セラドーム大阪での阪神戦を増やしてもらう」という思惑があるためとされています。実際、甲子園球場が使えない際にホームゲームをやっていますが、それ以外でもやってほしいということです。

そして2009年3月20日、この構想は42年の時を越えて実現します…。

*1:現在の駅でいうと、野田阪神〜難波〜谷町九丁目(上本町)〜鶴橋と、近鉄阪神が考えていたルートとほぼ一致する

*2:西九条を出てすぐのところでは大阪環状線の上を走るが、安治川を渡ってすぐ地下に入るため