交通科学博物館・ザ・ファイナル(前編)

今日は交通科学博物館へ行ってきました。ここへ足を運ぶのは、これが最後です。

かねてから噂のあった「JR西日本鉄道博物館」は、梅小路蒸気機関車館を拡張する形で2016年に実現することになりました。2月に起工式を行い、すでに着工しています。そのため、弁天町駅下車すぐ、大阪環状線の高架下にある交通科学博物館は、4月6日をもって閉館します。

交通科学博物館とは?

かつては、国鉄の博物館は秋葉原駅の近くにあった「交通博物館」が唯一のものでした。昭和30年代に入って、関西地区に交通博物館の分館を設置することが検討されましたが、大阪環状線全通記念事業として具体化し、環状線が全通した1961年の鉄道記念日に向けて準備が進められましたが、開館を前にした1961年9月、第2室戸台風が関西地区を襲い、それが原因で開館時期がずれ込んでしまい、1962年1月21日に開館しました。その当時の名称は「交通科学館」でした。

当初は交通博物館とのすみわけをするため、歴史的な展示物は少なめで、車両も4両しか展示していませんでした。英語での名称「Modern Transportation Museum」は、このことを表わしています。

その後は交通博物館とのすみわけがあいまいになってきましたが、交通博物館が大宮に移転して「鉄道博物館」となった際は、文字通り鉄道に特化した博物館であるため、交通博物館にあった鉄道以外の乗り物の展示物を交通科学博物館に移設しています。

しかし、開館から50年を超えて老朽化が進んでおり、大阪環状線の高架下という立地上これ以上の拡張は不可能なため、梅小路公園に新たな鉄道博物館を建設し、既存の「梅小路蒸気機関車館」と一体化して「京都鉄道博物館」として開館することになり、交通科学博物館は閉鎖されることになりました。跡地は「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として再開発される予定です。

ICOCAで入れる

通常は入口前の券売機もしくは関西地区の「みどりの窓口」で、大人400円、子供100円を支払ってチケットを買って入るのですが、JR西日本の博物館なので、ICOCA(相互利用できるICカードも含む)で入館料の支払いも当然OKです。

大宮の鉄道博物館と異なり、入口にあるICOCAのセンサー(キヨスクやファミマなどにあるのと同じもの)に当てるだけでOKです。

リニアモーターカー

超電導リニアの研究は1962年、東海道新幹線が開業する前から行われていましたが、1977年に宮崎に実験線を敷いて実験を行うことになり、その時に製造された車両が「ML500」です。

現在、大月周辺*1で行っているU字型の線路とは異なり、中央に逆T字型のガイドウェイが生えています。ただ、この方式だと客室を設ける際に屋根が高くなってしまい、500km/hで走行する際に求められる低重心化の妨げとなるため、1980年に製造された「MLU001」で現在のU字型の線路になりました。

この中に超電導磁石が入っており、絶対零度に近い温度の液体ヘリウムを流して冷却し、超電導が起こるようにします。

新幹線の試作車

新幹線は当時世界でも例のなかった、200km/hを超える速度で走る列車であることから、小田原周辺に実際の複線を敷いて試験走行を行っていました。これを「モデル線」といい、実際に200km/h以上の速度で走らせるなどして試験を行い、さらには現場要員の養成も行っていました。このモデル線は新横浜〜小田原の一部となり、現在では700系やN700系が行き交っています。

その際、試験に供された車両が「1000形」で、2両編成(A編成)と4両編成(B編成)が1編成ずつ製造されました。先端にある表示器は列車番号の表示器です。A編成とB編成で異なる塗装がなされていましたが、ここに示したのはB編成の塗装で、後に0系を量産する際にはこちらのデザインが採用されました。

開業当初は、便ごとにこのようなサボを作って車体に表示していましたが、高速走行時に飛んでいってしまう恐れがあったため、程なくして電動の方向幕に切り替わりました。

出札の道具

これは1965年から運用を開始した「マルス102」の端末機とプリンターで、システムとしての「マルス」はこれが3代目です。

最初に開発されたマルスマルス1)は「こだま」「つばめ」上下2便ずつ、向こう15日間分しか管理できず、切符を直接印刷する機能がなかったため、端末に入力して出た座席番号や乗車区間を別の紙に印刷して切符の用紙に手書きする必要がありましたが、マルス101で切符を印刷する機能が付きました。しかし、今度は横4列の列車(在来線)にしか対応しておらず、新幹線(二等車→普通車は横5列)はこれまで通り台帳で管理して発券していたため、マルス102で新幹線に対応するようになりました。

右側にあるマルス102のプリンターでは、発券する際に乗降する駅名のスタンプを差し込んでいましたが、これは乗降する駅を入力するという操作も兼ねていました。マルス105以降では、駅名を入力する際に本のページ状になった入力装置を使用し、乗降する駅をめくって探してそこの穴にピンを差し込むという動作を行うように変わりました。その後、マルス305では端末がワークステーションに変わったため、マウスでクリックして選ぶようになり、現在のマルス501ではほとんどがタッチパネル付き端末になっています。

マルスが開発される前はどうやって指定席を出していたかというと、東京駅と大阪駅にあった乗車券センターで台帳を管理しており、窓口で乗客から申し出があるとそこへ電話をかけ、台帳を調べて出してもらうというもので、ダブルブッキングしたり発券に時間がかかるなどというデメリットばかりでした。高速で回転しているテーブルがあり、そこには全ての指定席付き列車の座席を記した台帳が収納されており、駅から申し出があるとそれを引っ張り出して台帳に書き込み、終わったら元の場所に戻すという手間がかかっていました。

これらの問題を解決するため、世界でも例がなかったコンピュータを用いた座席予約システムの研究・開発を日立製作所とともに1957年から開始し、1958年に「マルス」として結実しました。このような経緯もあり、マルスのホストコンピュータも端末機も日立製のものを中心に使用しています。

かつては「硬券」という、文字通り厚紙に印刷された硬い切符が出されていました。しかも地域ごとに印刷所があり、一括で印刷されていました。前もって印刷して駅に備えておき、発券する際に日付を入れて出されます。

これは、その「硬券」の紙に模様(「地紋」という)を付けるための板です。乗車券はサイズが決まっており、そのサイズに切って印刷するのですが、切る前に地紋を付けておきます。

地紋を付けたら、決まったサイズに切り分け、このようなスタンプで券面を印刷します。乗車券のサイズはいくつかあり、もっともポピュラーな「エドモンソン式乗車券」(A型券ともいう。30mm×57.5mm)や、少し長い「D型券」(30mm×87.5mm)などがあります。このうち、エドモンソン式乗車券は現在でも自動券売機で買える近距離切符として知られています。

自動券売機が導入された当初は、現在のようなその場で印刷して出すものではなく、硬券を入れてあり、お金を入れてレバーを引くと硬券が出てくるというものでした。その後電動化されましたが、1960年代まで硬券を出すだけの自動券売機は見られました。

車掌が持っている「車内補充券発行機」です。「乗り越し、区間変更される方は車掌まで…」というアナウンスでおなじみで、乗り越し精算や区間変更を行う際に変更後の区間を打ちこみ、それを乗客に渡して精算するというものです。たいていの場合、単なる感熱紙に印刷されるだけで自動改札を通れないのですが、かつてJR東日本では自動改札を通れる車内補充券を発行していたことがありました。

*1:笑点」で小遊三師匠がたい平師匠に対して大月の自慢話をする際、リニアの実験線を引き合いに出したことがあるらしい