交通科学博物館・ザ・ファイナル(中編)

自動改札機

改札を自動化するという試みは、銀座線の開業以来なされていました。この当時使われていたものは、現在でも遊園地の入口にあるようなゲートでした。これは、当時の銀座線の運賃が10銭均一だったためにできたもので、10銭硬貨を入れてバーを回すと入場できました。

現在のように切符を機械に通すものは、最初はパンチカード式のものが開発されました。これは、切符に開けられた多数の穴の並びで区間と有効期間を読み取るもので、北千里駅に初めて設置されました。ただし、定期券専用で通常の乗車券・回数券は今まで通り有人改札を通るようになっていました。

現在主流の磁気式は、1969年に近鉄学園前駅で試験導入され、関西地区の私鉄・地下鉄では1970年代初頭からあっという間に普及しました。

国鉄では、1973年に武蔵野線片町線(片町〜長尾)に試験導入されましたが、労働組合が嫌がったため本格的に導入されるに至らず、京都駅の地下改札口に追加導入されたぐらいで全く普及しませんでした。関東の私鉄でも試験的に導入したところはありますが、磁気化されていない切符を入れられて故障するなどといったトラブルが多かったのと、関東では相互乗り入れや国鉄と私鉄の乗り換え改札が多く、自社の改札だけ自動化するわけにもいかないため、関東では自動改札機は全くと言っていいほど普及していませんでした。例外は横浜市営地下鉄で、開業以来改札業務は完全に自動化されていました。

これは、片町線で実際に使用されていた自動改札機で、なぜ片町線だったのかというと、当時の自動改札機は乗り継ぎなどの複雑な処理ができなかったため、他社との接続が少ない片町線が選ばれたのが実情だったようです。その後、複数枚の切符や2社以上の路線の乗り継ぎ切符が処理できるようになる*1など処理能力が上がり、現在のJR各社の在来線向け自動改札機は3枚通せます。

国鉄バス

国鉄ハイウェイバスに供された車両、三菱ふそう「B906R」です。かつての国鉄バスでは、ハイウェイバスに特化した車両を特注しており、「国鉄専用型式」と呼ばれていました。次のような性能が要求されていました。

  • 最高出力は自然吸気で320PS以上*2
  • 最高速度は140km/h
  • 100km/hで巡航可能
  • 3速で80km/hまで加速可能
    • ゼロヨン加速タイムは29秒以内
    • 4速に入れて80km/hから100km/hまでは15秒以内
  • 4速に入れて排気ブレーキをかけ、100km/hから60km/hまで22秒以内で減速

そのため、国鉄向けに「自然吸気の高出力エンジン*3」「1速で発進するMT*4」というものを民間向けとはまた別に設計しなければならず、しかも型式認定などで多額の費用がかかる*5にもかかわらず国鉄は開発費を負担しなかったため、排ガス規制・騒音規制をクリアできないというところまで追いつめられ、「民間向けより性能が悪い」というところまで落ちぶれてしまいました。その後、過給機は解禁され1984年度の新車で採用されており、エンジンは民間向けに追いつきました。

1986年より民間向けと同じものを導入することになって「国鉄専用型式」は消滅し、現在のJRバス各社も民間向けのものを導入しています。

プラットフォームプラザ

国鉄初の量産型蒸気機関車・230形の233号機です。この当時の蒸気機関車の型式は数字だけで、動輪の並びがわかりにくいのですが、B型です。

この当時から、国鉄と同じスペックの車両を私鉄で独自に発注して使用するということがあり、南海高野線東武東上線*6を走っていたこともありました。

北海道で鉄道を敷設した際にデビューした7100形蒸気機関車で、「義経号」と名付けられています。この名称は、北海道でデビューを飾って以来つけられていました。

国鉄80周年記念事業として、1952年に鷹取工場で復元されましたが、1990年に「花の万博」の会場内のイベント列車の牽引機として抜擢されるまで、本線を走ることなく鷹取工場で眠っていました。花の万博が閉幕後はいったん交通科学博物館に移設されましたが、1997年に梅小路に移設され「SLスチーム号」として館内を走っていました。その後再び弁天町に戻り、ガラス張りの車庫に収められていましたが、閉館に当たって再び梅小路に移設されます。

移設の準備のため、車庫から出されていました。

みなさんご存知、“デゴイチ”ことD51の2号機と、20系の食堂車「ナシ20」です。休日はナシ20がレストランとして営業していましたが、すでに営業は終了しています。

D51には、どういうわけかメーカーのプレートがありませんでした。

C62の26号機。蒸気機関車には珍しい戦後製だったりします。

80系電車の先頭車「クハ86001」。初代“湘南電車”として1950年から投入され、それまで客車列車が幅をきかせていた中・長距離列車を電車で運行する先駆けとなった車両で、大部分の旅客列車が動力分散型になったきっかけを作りました。

80系というと、現在でも“湘南型”と言われる正面2枚窓のスタイル*7が先に想起されるのですが、初期の先頭車20両は同時期の旧型国電のような正面3枚窓で登場しました。

後に編成を短くしてローカル線に転用した際は、103系風の顔を付けた改造車が出てきました。

国鉄初のディーゼル特急・キハ80系。当初は151系や481系と同じボンネット型の先頭車*8を両端に連結して登場しましたが、定員が少ないのと、中間に先頭車を組み込めないために編成を組みづらいというデメリットばかり出てきたため、1961年からは貫通型のキハ82が代わりに登場しました。

ボンネット型のキハ81を両端に繋いだ編成は、1978年まで「くろしお」として運行されていました。その「くろしお」でも、間にキハ82を挟んで7両編成と3両編成に分割できるようにしていました。

ところで、「ボンネットの中身は?」というので長らく悩み続けていましたが、この中にはサービス電源用のディーゼル発電機とコンプレッサーを入れてあります。特急用車両ということで、騒音源を客室から離すためにボンネットに入れた、とのことです。

*1:阪急・阪神・山陽・神鉄神戸高速の改札機は最大3社が関係する連絡切符を一発で処理できるようになった

*2:当時、国鉄では過給機の信頼性に疑問符を付けていた

*3:例外として、初期の日産ディーゼル製車両はスーパーチャージャーを装備していたが、これは出力を上げるためではなく、当時の日産ディーゼルのトラック・バスに装備されていた単流掃気式2サイクルディーゼルエンジン(UD)では排気するためにスーパーチャージャーが必要だったため、例外的に認められた

*4:通常、大型車のトランスミッションは2速で発進できるように設計されており、1速はフル積載や坂道発進で使う程度

*5:国鉄向けの特注品であっても、公道を走る以上は型式認定を受ける必要がある

*6:自社で発注したのではなく、高野線が電化されて不要になり、東武東上線に移籍した

*7:私鉄でもこのスタイルが大流行した時期があり、著名なものでは東急5000系(初代)、京王3000系などがあった。関西では南海21001系、近鉄800系、阪神の初期型ジェットカーがあったが、関西では貫通扉付きのスタイルが好まれたため、あまりはやらなかった

*8:そのスタイルから「ブルドッグ」ということがある